物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

拡張への衝動

2022-05-17 16:57:09 | 数学
遠山啓著『現代数学対話』(岩波新書)は1967年発行の書である。購入して持ってはいたが、あまり読んだことはなかった。

それでもこの書の第4章は「拡張への衝動」というタイトルでそれほど難しくなさそうである。それで最近になってこの章を読んでみた。この章には私も関心を持っている n! とかガンマ関数のことが書いてあって興味深かった。

数学にはある結果が得られるとその結果を拡張したいという衝動を人々にあたえるところがあるという。

どういう契機でオイラーがガンマ関数を考えたのかという説明はこの書には書かれていなかった。いつかどこかで読んだところではオイラーは n! の補間に生涯関心をもっていたとのことなので、それがガンマ関数という関数を考えついた理由なのだろう。

(2022.5.18付記)ガンマ関数は積分で定義されるが、その値をどう評価するのかが私の今の関心事である。森口繁一さんの『数値計算工学』(岩波書店)にはその数値計算の仕方が少し書いてあるが、それほど詳しくはない。

ちょっと詳しい数学書にはガンマ関数のグラフがあるのが、普通なのでそれをどう計算して、評価したのかといつも疑問に思っている。











私の目指していたことはなにか

2022-05-17 09:53:24 | 数学
私の目指していたことは何だったか。ようやくわかりかけてきた。

高校数学の中の三角関数の加法定理にしても三角関数の還元公式にしてもいろいろな導出法をまとめる作業をしていたが、どういうことだったのか。

それはより高い数学の観点からも含めて、いまの三角関数の加法定理や三角関数の還元公式をどのように導けるかということを調べておきたいという考えである。

そういうことを考えてまとめた人がいたかどうかは私は知らない。多分いないだろう。そういうことをすることが私がしたいことではないかと思い出した、今日このごろである。

正弦関数と余弦関数のグラフを用いて還元公式を導くことについてのエッセイの原稿をここ数日はつくっていた。すなわち、4月の終わりにまとめた原稿の改訂をどうすべきかを考えていた。

この三角関数の還元公式の導き方にどういうものが考えられるかについては、「三角関数の還元公式1」にまとめてある。そこにあげられた方法の2番目がグラフを用いての正弦関数と余弦関数の還元公式を導出法である。

ということで、これから「三角関数の還元公式3」のエッセイを書こうとしている。

憲法九条とウクライナ侵攻

2022-05-16 12:56:21 | 本と雑誌
以下はある方からの要請されて急いで書いたエッセイである。

 憲法九条は世界に先駆的な革新的宣言であり、一世紀いや二世紀も先駆するすばらしい思想である。このことを日本人である私たちが気づいていない。
 そうではあるが、最近のロシアのウクライナ侵攻は日本の憲法九条の維持にも大きな影響を与えている。日本では不戦の信条の下に「ウクライナはロシアに降伏すべきだ」という意見もあるようだし、また一方でウクライナ国民の尊厳を守るためにあくまで戦うべきだという意見もある。
 どちらの意見をとるにしても、日本人としての今までの存在基盤が揺り動かされていることはまちがいがない。そういったこともちろん承知の上で、日本へのロシアの侵攻があったとしたら、お前はどうするかと問われれば、やはりガンディーの「無抵抗不服従」しか私には考えられない。
 もちろん、他の人がどうするのか、それはその人の考え方であるが、私の立場からすると、敵国を先制攻撃できる軍事兵器の整備をし、さらには核武装したりなどは絶対に許されることではない。なぜか。地球上において未来に対して持続的に維持可能な社会・世界をつくるためには戦争ほど愚かなものはない。
 軍備増強は軍事産業を一時的に潤すだろうが、これは人類ができるだけ長く地球上で生存するためには、もっとも悪い影響しか残さない。戦争は人類にとって無益な資源の浪費である。そういう資源の浪費は厳に慎むべきことである。
 プーチンのウクライナ侵攻は、彼個人にとってはNATOの東方進出の脅威の除去を目指すものであったかもしれないが、現在はもうそういう時代ではなく、地球上の人類のできる長い生存が問題になっている時代なのだという認識がなくてはならない。プーチンのマインド・セット(考え方)の古さを正さなくてはならない。

比についてのエッセイはまだ書いていないが、

2022-05-14 11:43:06 | 数学
比についてのエッセイはまだ書いていないが、今日はようやく一般二項定理のエッセイをひとまず完成できそうだ。

これはもちろん草稿は今年の1月2日に書き上げていたのだが、「遠山啓著作目録」の入力で遅れに遅れていたものだ。

昨日、いくらか付録の部分を入力してもうすこし入力すれば、付録が出来上がりそうである。それができると一応のできあがりである。

それにグラフによる三角関数の還元公式の導出も原稿はできているので、こちらは入力のみを残している。もっとも入力はグラフの入力も必要なのでかなりの仕事となる。

比についてのエッセイはやはり書いておきたい。それで「量の系統」とか「比例」とかの遠山さんの本を読み返していた。

むかし、この遠山さんの本は分数についての章を読んだ覚えがある。



『教師のための数学入門』再読

2022-05-13 13:13:18 | 数学
『教師のための数学入門』(国土社)を再読した。

とはいっても、「数量編」の第6章「量の系統」と第7章の「比例」の2つの章だけである。

他の章は前にも全部ではないが、読んだことがある思うが、どれくらいの章を読んだのかは覚えていない。

これはいま比のことに関心があるために、この2章を読み返したのである。
もっともこの本では関数・図形編も合本されているが、こちらはあまり読んだことがないと思う。

特に「関数概念の発展と展望」の章はいろいろ難しいことが書いてあって、もし読めば得るところが多いとは思うが、数式群が多いので、恐れをなしたのだと思う。

しかし、一度ここも読んでみたいと思いはじめた。








割合の内容から比の意味へ

2022-05-12 13:38:53 | 数学
算数・数学で出てくる割合とは、度・率・倍・比であるということを明白にしたのは数学教育協議会の業績であろう。

特に量の体系を提唱した遠山・銀林の両氏の業績は大きいだろう。

いま、比ということについてエッセイを書くという着想をもっている。
これは実は、比とは比の値のことをいうのだと教わったと書かれた、元気象庁長官の和達清夫さんのエッセイに触発されているからであるが、最近文通をしている I さんの疑問に答えたいという気持もある。

和達さんは、彼の学んだ旧制中学校時代に教わった宮本久太郎さんの意見を紹介しているのだが、宮本先生は数学の最初の授業で、

「これからは比の値はいくらといわず、ただ比はいくらといいます。それはこの白墨の値はいくらといちいちいわないのと同じです」と言われたという。そして「比というのは<割る>と同じだと思ってよろしい」といわれたとか。

和達さんは比という言葉はなにかばくぜんと数量を比べるという意味や比例という語につながって、面倒なものであると思っていたのに、ただ<割る>というのと同じだといわれて、非常に明解で安心感が得られたという。

以上は『数学ティータイム』(日本評論社、1965)よりの引用であるが、長い間、高校で数学をおしえて来られた私の知人の I さんでさえも知らなかった言明である。

遠山啓さんの『教師のための数学入門』(国土社)でも、比が割ることと同じならば、比という別の名前などいらないと書かれているから、やはり比は難しいのだろう。しかし、こういう和達さんの先生である、宮本さんの割り切りはやはり卓見であった。

ちなみにもう半世紀近く前にドイツで出会った学生が割る記号として日本では比を表す a:b をa割るbの意味に使っていたので、びっくりしたことがある。

いうまでもなく、三角比は単に比ではなく、これは割られた一つの数値を示しているし、相似比も結局は割れた値だと思った方がいいのではなかろうか。少なくとも三角比の場合には割られた数値を意味している。

高校の化学の問題を解くときにはこの比とか比例するということを分数を使って方程式をつくるということを私は高校の化学の問題を解くときに学んだ。もう内容、そのものはまったく記憶にはないけれども。

なかなか忙しい

2022-05-11 17:24:08 | 数学
今日もブログを書くことに頭が回らなかった。

昨日も2行くらい書いておしまいになった。はじめからそのつもりではなかったのだが、結果としそういうことになった。

これは「遠山啓博士の著作目録」の改訂版の入力とかに時間が割かれているからである。こういうこともある。

町田東一著『行列の対角化と固有値』という本をもっていないかと、この間聞かれたが、運悪くこの本はもっていなかった。E大学の付属図書館にはあるようなので、借りてきてコピーをしておきたいと考えているが、その暇もない。

このシリ-ズの本で『行列と連立方程式』という本もあるらしい。同じ町田東一著である。

無理関数は必要か

2022-05-09 10:57:06 | 数学
無理関数は必要か。

あまり無理関数は研究上では扱ったことがないのは事実である。最近は一般二項定理のエッセイを書いているが、そこでは四分円の面積を求めることが事の発端であるので、無理関数が出てくるが、それくらいである。

昨日、「遠山啓博士の著作目録」の改訂のために私のもっている、遠山さんの本を書棚から取り出して見ていると、どこかに無理関数を教えるメリットがあまりないとかなんとか書いてあるのを散見した。

これは私の経験とも一致するが、果たしてどうなんだろうか。分数方程式を解くことが必要になる技術的な例として、原子炉の技術か何かでそういう必要があるのは一度見かけたことがあるのだが、それくらいである。


老眼鏡を忘れた

2022-05-09 10:46:25 | 本と雑誌
仕事場には来たが、老眼鏡を忘れて来てしまった。

仕事ができにくいこと甚だしい。第一このブログの入力がなかなかできにくい。

こういうことがあるから老眼鏡のケースは前の晩にカバンの中に必ず入れるように心がけてはいるのだが、昨夜はそれを忘れたらしい。

本を読むのも、このブログの入力も目をきわめて近づけてしかできないという事態だ。

もともと私は極度の近視である。それに老眼になって、ますます仕事をするのが難しくなった。

ところが私は文章を書くのが好きである。読むのも嫌いではないが、書くほうが好きである。それに読むのも老眼鏡がないと進まない。

困った、困った。


事情で今日の始動は遅くなった

2022-05-07 13:57:10 | 数学
事情で今日の始動は遅くなった。

普通なら、お昼前にはこのブログを書くのだが、今日は書くのが遅れた。どの家にもある家庭の事情です。大したことではありません。

このところ、「遠山啓博士の著作目録」にかかりきりだ。前に40ページを越えるリストを発表しているのだが、いま強力な協力者が現れて、さらに完全なものを目指しているという訳である。

長年の探索の成果をまとめたのが、昨年末に発表した「遠山啓博士の著作目録」であったが、その大々的な改訂である。

自宅でも本箱の中の遠山の本を取り出してきては再点検をしている。






無駄な出来事というものは起らないものなのだ

2022-05-06 17:18:20 | 本と雑誌
「おそらく、無駄な出来事というものは起らないものなのだ」とはさきほど聞いたラジオのNHKフランス語講座「まいにちフランス語」応用編に出てきたセリフである。

年老いた国王Arkelの言うセリフである。

Il n'arrive p^eut-etre pas d' 'ev'enements inutiles. 
(イル ナリーヴ プーテトル パ デヴェヌマン イン二ュティル)

アクサン・シルコンフレックスをどこかのeの上につけたり、アクサン・テギュをつけたりしなければならないが、あまりうまくつけられていない。

これは話の筋からはもっともなセリフだが、これを現在のウクライナ情勢にあてはめたりしたら、これは大いに顰蹙(ひんしゅく)を買うだろう。

あくまで話の筋にしたがった話である。もっともこの話でもこのセリフが本当にあたっているとは言えそうにもないのだが、果たしてどうか。

Bruekentag

2022-05-06 17:01:45 | 本と雑誌
Bruekentagとはドイツ語である。
 
かなりドイツ語が得意の人でもBruekentagとは何か知らないかもしれない。たとえば、今日はBruekentagである。
 
どういうことかというと、5月のゴールデン・ウィークで3,4,5日と祝日が続いた。ところが今日は祝日ではなく、普通は休めない。
 
だが、今日も続けて休むと明日と明後日まで続けて休日になる。そういう橋渡しの日ということでドイツではそういう日が法律的に休みやすくなったらしい。
 
これはかなり以前に私たちのドイツ語の先生である、R氏から聞いていたことである。
 
もちろん、die Bruekeは橋を意味するドイツ語である。休日と休日に橋を架ける日とでもいうべきかもしれない。手元のドイツ語の辞書にあるのかどうかはまだ調べていない。
 
個人的には祝日は特別のことがない限り私は休まないことにしている。その代わり、日曜日は必ず休みをとることにしている。

人は自分の意志では何もできていない?

2022-05-05 11:49:27 | 本と雑誌
「人は自分の意志では何もできていない?」とのことをHumanicsとかなんとかいうNHKの番組で見た。昨夜のことである。

確かにある直線上を歩くように言われた人が外からその人の脳に電波か何かで電流を流されるとその直線からずれてしか歩けない。こういう事実を見せられるとそのこと自身は否定できない。

だが、人間はそれだけの存在なのか。たぶん違う。そういう視点にはこの番組はないのではないかと思った。

人間の個性を形成しているところのものは独特のものがあり、それは単なる意志かどうかはわからないが、その個人によって独特である。

無意識の役割が大きいという主張はよくわかるが、その無意識を形成するところになんらかの特色がある。

そういう視点が必要なのではないかと思った次第である。これは現在のミクロな脳の仕組み以外にもっとマクロな脳の仕組みを解明するという視点が必要なのではないかと思った。

そちらがむしろ大きな要素ではないのか。

無意識が大きな役割をしているということは河合隼雄著『コンプレックス』(岩波新書)でずっと以前に知ったことである。

人間には自分で意識される意識の部分とそれよりも大きな無意識の部分があるとの見解は十分に知っているつもりである。

河合隼雄さんは心理的に困った状態の人から話を聞いてあげることによりその人の心理的な状態がいわば自分の気づきにより改善されるという手法をとってカウンセリングを行ってきた。

自分の意欲とかはどこに存するのか知りたいとは私なども思うところである。

ミクロな脳の解明はもちろん必要であるが、もっとマクロな脳の解明はなかなか解明ができないかもしれないが、重要なことではなかろうか。





昨日は75回目の憲法記念日だった

2022-05-04 11:45:30 | 本と雑誌
昨日は75回目の憲法記念日だった。1947年(昭和22年)、私は小学校の2年生だった。敗戦の翌年に小学校に入学したが、この年は病気がちであり、学校へ行けない日も多かった。

2年になり少しづつ元気になったが、まだ十分に体が健康にはなっていなかったろうか。それでもだんだん健康に なりつつあった。

食糧事情もまだまだ厳しかったが、1945年とか46年よりは回復してきていた。空襲で焼けてなかった小学校が建てられて、私の家から近いところに変わったのは2年生のときだったか、それとも3年生のときだったろうか。

2歳上の兄が先生に言われて、新憲法公布のポスターの絵を宿題として描いていたのを覚えている。その兄も昨年84歳で亡くなってしまった。

幸いなことに私はまだ特に体のわるいところはなく、高血圧とかで血圧降下剤などは服用しているが、まあ体の痛いところはない。

それはさておき、昨日は松山のコミュニティセンターでの憲法集会に妻と二人で出席してきた。その後の街中でのデモには高齢だから、失礼をして帰ってきた。

講演は防衛ジャーナリストの半田滋さんでなかなか行き届いた講演であり、最近のロシアのウクライナへの侵攻とか世界の軍事情勢とかの話はとてもわかりやすかった。

妻は途中で講演中に寝てしまったといっていたが、私は最初から最後まできちんと聞けたのはよかった。

軍事的な防衛力の増強とかは反対である。こいう言う考え方は19世紀的でマインドセットして古すぎるのだ。日本国憲法は世界に誇るべき財産であることを知らねばならない。