ニュースサイト宮崎信行の国会傍聴記

元日本経済新聞記者の政治ジャーナリスト宮崎信行が衆参両院と提出予定法案を網羅して書いています。業界内で圧倒的ナンバー1。

小沢一郎さんの関連2団体が小沢和子夫人に「事務所賃借料」を合計1112万円

2010年12月03日 23時01分31秒 | 小沢一郎氏による解党ビジネス
[写真]小沢一郎さんと小沢和子夫人

 小沢一郎さんの関連政治団体2団体が、「事務所賃借料」の名目で、2009年に小沢和子夫人に合計1112万円を支出していたことが、総務省の2009年(平成21年)定期公表分の政治資金収支報告書から明らかになりました。

 小沢衆議院議員の政策秘書(ことし9月に退職)が代表者を務める「誠山会」と「小沢一郎政経研究会」の2団体は、それぞれ毎月69万5000円ずつの「事務所賃借料」を1月分から8月分の合計1112万円支出しています。日付は、誠山会が2009年1月23日付~10月23日付の計8回、小沢一郎政経研究会が1月23日付~10月28日付の同じく計8回。

 小沢一郎政経研究会
 http://www.soumu.go.jp/senkyo/seiji_s/seijishikin/contents/101130/31510017.pdf

 誠山会
 http://www.soumu.go.jp/senkyo/seiji_s/seijishikin/contents/101130/31810059.pdf

 これはいったい何なのでしょうか?
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陸山会が政治資金収支報告書を大量に訂正 官報の冒頭3ページが埋まる

2010年11月16日 21時02分59秒 | 小沢一郎氏による解党ビジネス

 片山善博・総務大臣はきょう(2010年11月16日)付で、総務省告示の410号~419号と、10本という大量の総務省告示を発令。11月16日付官報の冒頭4ページ目までが総務省告示で埋まりました。これは「建制順」というものが総務省は第1位だから、冒頭になるわけで、ちなみに「建制順」という語感から府省の歴史が古い順という勘違いがありますが、総務省は2000年の橋本行革で出来たばかりの若い省ですから、建制順とはあらかじめ法令で定めた順番、いわば法が定めた秩序です。

 それはさておき。

 官報平成22年(2010年)11月16日付本紙(5438号)のホームページ↓(けっこうすぐにリンク切れしちゃいます、もっと延ばしてほしいですよね)
http://kanpou.npb.go.jp/20101116/20101116h05438/20101116h054380003f.html

 この総務省告示は、

〇総務省告示第四百十二号
政治資金規正法(昭和二十三年法律第百九十四
号)第十二条第一項の規定による政治団体の収支
に関する報告書について、岡昭会及び陸山会から
訂正の報告があったので、同法第二十条第一項の
規定に基づき、平成十四年総務省告示第五百二十
四号(政治資金規正法の規定による政治団体の収
支に関する報告書の提出があったので要旨(平成
十三年分)を公表する件)の一部を次のとおり訂
正する。
平成二十二年十一月十六日
総務大臣
片山善博

といった文面で、他の政治団体と混在していますが、「陸山会」以外は小沢氏とは関係なく、一緒に告示されただけ、ということだと思います。おそらく5月末までに総務省に提出し、今月末に公表予定の2009年暦年分の政治資金収支報告書の訂正だと思います。

[追記 2010年11月17日 午前10時]

【訂正】

 コメントで指摘をいただき、再度確認したら、コメント通りでした。このエントリーに書いてあることがかなり見込み違いであることが分かりました。平成14年分(2002年分)で陸山会の小澤一郎さんからの借入金が620万円増額する修正をしたことから、五月雨式に平成20年分(2008年分)までの借入金や、そして単式簿記であるために、繰越金額、収入総額まですべて直さなければいけなくなった、ということだったことが分かりました。訂正いたします。とはいえ、事後修正により官報の3ページ分を埋めてしまうという現実
はやはり人騒がせだ、と強調したいところですが、いずれにしろ、訂正します。それと、当ブログは司法は門外漢ですが、平成17年分(2005年分)に関して刑事責任を問われたり、強制起訴の法的手続きが進んでおり、当該刑事事件の検察・裁判所・弁護士の書類も書き直しが必要になり、手間取りのではないでしょうか?とはいえ、訂正は訂正です。おわびします。コメント欄でご指摘いただいた方ありがとうございました。

[追記おわり]

例えば総務省告示417号のなかには、

「(借入金)
小澤一郎35、928、973」

「(借入金)
小澤一郎41、128、973」
に改める

という記述もあります。

 ざっと数えたところ、25カ所訂正したようです。まあ、あまり小沢さんのことで僕の人生の有限な時間を浪費したくないのでざっと正の字を書いてみたら、25カ所だと思います。

 ただし、事実関係を25も訂正したわけではなく、単式簿記で記載される収支報告書の、「収入総額」「本年収入額」「前年繰越額」「借入金」などの費目を書き直したようです。いずれにしろ、小沢事務所内のガバナンスがぐっちゃぐちゃになっていることを想像させます。

 昨年分に関しては、2009年3月3日に公設第一秘書(ことし3月退職)兼陸山会会計責任者が逮捕され、帳簿も押収されたはずですから、そこから会計責任者が政策秘書(10月に退職)にバトンタッチして、3月31日のシメキリ最終日に提出していて、訂正に次ぐ訂正でした。まあ、さすがに、これはじゃっかん同情の余地があります。しかし、1年経って、公表直前に慌てて収支報告書を事後修正することは、国民によるチェックの透明性を失うことになりかねず、何らかの疑念を持ちたくなるのが当然だと思います。とはいえ、訂正しないと、もっと疑惑を持たれるような現実があったのかもしれませんが。

 いずれにしろ、政治家は疑惑を持たれるようなことははじめからしないのがイチバンです。

 平成21年分の政治資金管理団体など政治団体の総務大臣届出分は、数週間以内に次のページからみることができます。各種新聞報道が出ますから、その頃合いになったら、次のページをのぞいてみて、有権者としてチェックしてください。ひょっとすると、私たちの1票より、1社のカネが国会での投票行動を動かしているかも知れませんよ。

http://www.soumu.go.jp/senkyo/seiji_s/seijishikin/

 全体像が見えた時点で、小沢一郎さんには国会での説明責任を求めたいところです。

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新進党解党史 辛くても書かねばならない

2010年04月15日 15時57分25秒 | 小沢一郎氏による解党ビジネス

 新進党解党の歴史は、私にとって、傷口に塩水を塗り込むようなもので、筆舌に尽くしがたい辛さがあります。

 このエントリー2月に、私のツイッターの方で、「新進党の歴史を知りたい」というご要望にお応えし、1時間ほどで勢いで書いた新進党解党の歴史のツイートをまとめたものです。まとめたというよりも、箇条書きの状態です。

 もう少しまとまったものを書くには、時間が必要か、あるいは私の手には負えません。新進党解党の歴史を知ってください。

 では、まとまりのない文章で失礼します。(固有名詞を部分的に書き直しました)。

 ◇

  新進党解党について知りたいという方がいらしたので、少し書きます。新進党は首相経験者で自民党を離党した海部俊樹党首でスタートしましたが、小沢一郎幹事長側近議員(今はみんな落選しました)が専横を極めました。最初の小選挙区選挙では、小沢さんの戦略ミスと直前の鳩菅民主党結党があったのもかかわらず156議席を取りました。

 ◇

 156議席(当時は衆院の定数は500)といったら、今の野党第1党・自民党よりも3割ほど多い議席を持っていました。もしも、鳩菅民主党と選挙協力して、30選挙区ほどの自民党議席をひっくり返せば、第42回衆院選で政権交代は可能だったと思います。ところが、その前に新進党は解党しました。

 ◇

 例えば、民社党出身の川端達夫さんは、新進党を離党して、その後復党しました。悩んでいたのでしょう。自民党の亀井静香政調会長らの「新進党は創価学会だ」というネガティブキャンペーンに、創価学会員の秘書団による国会バリケード封鎖で抵抗するという戦術ミスもありました。これも小沢執行部の浅知恵によるものです。

 ◇

 党首選も小沢軍団は強いのはいいとしても、やり方が極端で、敗戦後の羽田孜陣営がその尊厳を傷つけられて、離党せざるを得ないところまで追い込みました。このとき羽田陣営で、北澤俊美さんは羽田さんと行動を一にし、一緒に離党し、太陽党を結成。一方、“脱出ボート”に乗り込むかどうかの瀬戸際で、岡田克也さんは「二大政党制の実現」のために新進党に残る決断をしました。

 ◇

 それでも二大政党のために新進党を立て直そうという機運は健在でした。1997年11月の党首選には、閣僚経験2回(農相、総務庁長官)があるとはいえ、ダークホース的存在だった鹿野道彦さんが敢然と出馬しました。鹿野さんというのは小沢さんよりも腰が高いという「珍しい政治家」でしたが、(笑)、「小沢230票」対「鹿野182票」まで追い上げました。

 ◇

 これに驚いた小沢さんは、鹿野さんに投票した人の排除をめざして「純化路線」という言葉を党運営に使い出しました。ちなみに「純化」とは、国によっては、少数民族の虐殺や混血推進(すなわち・・・レイプということです)に使われる恐ろしい政治用語です。小沢一派は、党内の不満分子を「分党」という格好で、新進党から追い出そうとしました。ここで甘かったのは、小沢一派は、「純化」をしても野党第1党の地位は保てると考えていたことです。実に甘い認識です。

 ◇

 新進党は1997年12月に分党しましたが、これは今の歴史では「新進党解党」と呼ばれます。新進党は8つの政党に大分裂してしまいます。細川護煕元首相は「フロムファイブ」、岡田さんと鹿野さんは「国民の声」、神崎武法さん、冬柴鉄三さん、浜四津敏子さんら創価学会員は「新党平和」、旧自民党議員ながら創価学会の支援も欲しい首都圏の議員は「改革クラブ」(石田勝之幹事長)、中野寛成・川端達夫・直嶋正行さんら旧民社党は「新党友愛」・・・

 ◇

 第1次民主党(鳩菅共同代表)、新党友愛(中野寛成代表)、太陽党(羽田党首)、国民の声、民主改革連合(土肥隆一幹事長)らは1998年の通常国会を統一会派「民主友愛太陽国民連合」(民友連)で臨みました。そして、小沢党首率いる「自由党」は「純化」の結果、なんと野党第2党に転落してしまったのです。

 ◇

  通常国会中に、「民主友愛太陽国民連合」は第2次民主党を結党しました。結党大会の司会は、岡崎トミ子さんと松沢成文さんでした。野党第2党は自由党、(小沢党首・野田毅幹事長)、そして、創価学会員のほとんどの議員は野党第3党の「新党平和」(後に「公明党」に名称復帰)になります。

 ◇

 民主党結党からわずか3ヶ月で臨んだ1998年の参院選で民主党は大勝し、その日のうちに橋本龍太郎首相は退陣。「官邸の森蘭丸」とまで呼ばれた首相秘書官(政務)の江田憲司さんも、突如、失業してしまいました。自民党総裁は小渕恵三さんになります。野党第2党になった小沢自由党はあせって、小渕内閣と連立。さらに野党第3党の公明党も加わり、「自自公連立」に。自民党は息を吹き返し、政権交代ある二大政党制は遠のきました。

 ◇

 新進党解党当時、渡部恒三さんは衆院副議長でしたので、慣例にもとづき無所属となっていました。第2次民主党結党大会の来賓としてあいさつし、「私が(副議長退任後に)帰る家を作ってくれてありがとう」「山一・拓銀ショック。今解散があったら、政権交代できた」と語りました。そして、「もしも新進党が残っていれば政権交代できた・・・あっ、そこに小沢君がいた。来賓だって。よく恥ずかしげもなく来られるね」と語ると満場が嘲笑の渦になりました。議員も秘書も記者も、来賓としてやってきた小沢一郎・自由党党首を指さし、嘲り笑いました。

 ◇

 当選2回生の河村たかしさんは、世渡り失敗で、新進党から自由党に行ってしまいましたが、小沢党首に敢然と離党の理由を口頭で述べて、離党届を出しました。半年間ほど無所属で「黒い経歴ロンダリング」をして、1998年暮れに民主党に入党しました。

 ◇

 (ツイッターでのやりとりです)。

 @M2_sado そうです。あの(今国会で衆院予算委員長を務めている)鹿野道彦さんです。新進党党首選に出た時点で、元農林水産大臣・元総務庁長官という2つの閣僚経験がありました。山形新幹線を引いた実績もあります。政治改革の夢をめざして自民党三塚派から新進党に移りました。当時も今も清和会出身は民主党で珍しい存在です。

 ◇

 @haruo6 ありがとうございます。新進党史は僕も辛くて、ブログにまとめたことがありませんでした。当時を知っている議員や秘書ともその話はあまりしません。友達の離婚や再婚の話にあまり触れないような感じです。きょうはツイッターをつかって、カンタンに書いてみました。

【追記 2011-3-11】

 このエントリーは初投稿から1年経っても、連日数十人の方に読んでいただいています。資料的価値を高めるため、1994年12月10日の新進党結党大会(パシフィコ横浜)に参加した国会議員(当時の現職のみ)リストを掲載します。

1994年(平成6年)12月10日の「新進党」結党大会に参加した国会議員一覧

 【衆議院議員】

 ◇旧新生党 愛知和男、愛野興一郎、青木宏之、粟屋敏信、井奥貞雄、井上喜一、石井一、石破茂、岩浅嘉仁、上田清司、江崎鉄磨、小沢一郎、小沢辰男、岡島正之、岡田克也、奥田敬和、加藤六月、金子徳之介、木村守男、北村直人、工藤堅太郎、熊谷弘、小坂憲次、古賀一成、古賀敬章、古賀正浩、左藤恵、佐藤守良、笹山登生、実川幸夫、柴野たいぞう、白沢三郎、杉山憲夫、田名部匡省、高橋一郎、月原茂皓、土田龍司、豊田潤多郎、中島衛、中西啓介、仲村正治、二階俊博、西川太一郎、羽田孜、畑英次郎、広野允士、吹田、藤井裕久、船田元、星野行男、前田武志、増田敏男、松沢成文、松田岩夫、宮本一三、村井仁、山岡賢次、山田正彦、山本幸三、吉田公一、渡部恒三

 ◇旧公明新党 青山二三、赤羽一嘉、赤松正雄、東祥三、石井啓一、石田幸四郎、石田祝稔、市川雄一、上田晃弘、上田勇、遠藤乙彦、遠藤和良、大口善徳、大野由利子、太田昭宏、近江巳記夫、長内順一、貝沼次郎、河合正智、河上覃雄、神崎武法、北側一雄、久保哲司、草川昭三、倉田栄喜、権藤恒夫、佐藤茂樹、斉藤鉄夫、坂口力、田端正広、高木陽介、竹内譲、谷口隆義、千葉国男、富田茂之、鳥居一雄、西博義、日笠勝之、東順治、平田米男、弘友和夫、福島豊、福留泰蔵、二見伸明、冬柴鉄三、桝屋敬悟、宮地正介、森本晃司、山口那津男、山田英介、山名靖英、若松謙維

 ◇旧日本新党 阿部昭吾、伊藤達也、今井宏、江田五月、鴨下一郎、河村たかし、小池百合子、木幡弘道、鮫島宗明、須藤浩、武山百合子、樽床伸二、中田宏、中村時広、永井英慈、長浜博行、野田佳彦、初村謙一郎、藤村修、細川護煕、松岡満寿男、矢上雅義、山崎広太郎、山田宏、山本孝史、渡辺浩一郎

 ◇旧民社党 安倍基雄、青山丘、伊藤英成、石田美栄、川端達夫、神田厚、北橋健治、小平忠正、笹木竜三、高木義明、塚田延充、中井洽、中野寛成、西村真悟、柳田稔、吉田治、米沢隆

 ◇旧高志会 今津寛、海部俊樹、野田毅、野呂昭彦、保岡興治

 ◇旧新党みらい 鹿野道彦、北川正恭、坂本剛二、佐藤敬夫、増子輝彦

 ◇旧改革の会 石田勝之、大石正光、笹川尭、西岡武夫、鳩山邦夫

 ◇旧自由党 新井将敬、太田誠一、高市早苗、山本拓、米田建三

 ◇旧リベラルの会 川島実、山口敏夫

 【参議院議員】

 ◇旧新生党 石井一二、泉信也、北沢俊美、釘宮磐、小林正、木暮山人、田村秀昭、永野茂門、野末陳平、林寛子、平野貞夫、星野朋市、松尾官平

 ◇旧公明新党 牛島正、刈田貞子、黒柳明、木庭健太郎、白浜一良、高桑栄松、続訓弘、常松克安、中川嘉美、広中和歌子、矢原秀男、和田教美

 ◇旧民社党 足立良平、井上計、勝木健司、寺崎昭久、直嶋正行、長谷川清、吉田之久

 ◇旧日本新党 寺沢芳男、円より子

 ◇無所属 都築譲、中村鋭一

 以上
【追記おわり】

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小沢一郎、民主党本部購入を策謀か? 民由合併時

2009年12月17日 10時03分03秒 | 小沢一郎氏による解党ビジネス
[画像]プルデンシャルタワー(大成建設ホームページから)

 17日付東京新聞1面トップ記事を読んで驚きました。

 2003年、菅直人代表率いる民主党は、少数政党「自由党」を解散させた上で同党所属国会議員を民主党員として引き取りました。いわゆる「民由合併」です。

 東京新聞記事の内容から推測すると、固有名詞は未確認ですので、仮称ということにさせていただくと、

 2002年

 自由党党首だった小沢一郎氏が民主党全体の本部(1996年以来三宅坂ビルを間借り)を
 ↓
ホテル・ニュージャパン(火災により営業禁止→廃業)跡地の
 ↓
「プルデンシャルタワー」(2002年完成)に
 ↓
に移転させた上で、党本部を小沢が購入し、党本部の大家になろうと企て、
 ↓
プルデンシャルタワーの建設を請け負った大成建設の東北支店員に
 ↓
所有者(プルデンシャル生命と森ビル?)にあっせんさせたものの、
 ↓
所有者が「賃貸ビルである」ことを理由に、部分的な売却(分譲?)を断った

 というエピソードがあったそうです。私はまったく知りませんでした。

 この件に関して、小沢一郎・衆院議員の大久保隆規・公設第一秘書の刑事被告人(あす初公判)としての弁護人は、「ビルのことは少し聞いたことがあるが」と話しているようです。

 小沢氏は民主党本部のオーナーになることで、①国から民主党に確実に入る政党助成金から家賃収入を得る②党本部内の間取りやスタッフの配置といった情報を入手する③小沢議員の意向に従わない党幹部に対して「党本部立ち退きカード」をちらつかせることで影響力を持つ――ことなどで「外様大名からの脱却」をねらっていた可能性があります。

 この時の執行部はほとんどが鳩山内閣に入っています。ぜひ、既存メディアによる解明をお願いします。

東京新聞:大手ゼネコン 小沢氏側への献金4倍に 関係者証言『関係修復のため』:社会(TOKYO Web)

 東京都内の大手ゼネコンが、岩手県で胆沢(いさわ)ダム建設工事が始まった二〇〇三年から、小沢一郎民主党幹事長側への献金を年間約五百万円から同約二千万円に増額していたことが、関係者への取材で分かった。同社関係者は「前年に小沢氏事務所側と政党本部の移転をめぐってトラブルになり、関係修復のために小沢氏側の要請で増額した」としている。 

 関係者によると、このゼネコンの東北支店幹部は〇二年、自由党党首だった小沢氏側から、同社が東京・永田町に建設したビルに、同党が合併を計画していた民主党の党本部が入居できるよう、ビル所有者へのあっせん依頼を受けた。

 依頼したのは、小沢氏の公設秘書大久保隆規被告(48)=政治資金規正法違反罪で起訴=で、入居部分を購入する意向を伝えた。だが、ビルは賃借用だったため支店幹部はあっせんを断り、結局入居できなかったという。

 これを機に小沢氏側との関係は急速に悪化。ゼネコン側は〇三年に関係修復に動き、大久保被告の要請に応じて、下請け業者などと分担して、小沢氏関連の複数の政治団体に分散して行っていた献金の総額を四倍に増やしたという。

 ゼネコン側関係者は「小沢事務所側を怒らせると、胆沢ダムなど大型の公共工事が取れなくなると思った」と献金増額に応じた理由を説明。同社は胆沢ダムの関連工事を計約二百三十九億円で受注している。

 小沢事務所は本紙の文書での取材に「事実を把握していない」と回答。大久保被告の弁護人は「ビルのことは少し聞いたことがあるが、献金が増えたとか、大久保被告が要求したというようなことは知らない」と話している。

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