[写真]宮崎信行、両陛下パレード終了直後に発生した「国会裏の歩行者天国」で。
●大晦日の振り返りでなく、年を越してもよろしくお願いします。
例年、大晦日に一年を振り返ってきました。45歳となり、自分の境遇や影響力を考えると、2019年から2020年にまたいで、引き続き、よろしくお願いします、と。
●人生最大の胸突き八丁の峠を越す。
私権を享有した日から「創業オーナー社長の次男」という立場しか経験していない私が、きょねん、逆に、自分一人が社長に。人生最大の胸突き八丁となった2019年ですがフィニッシュ。新生党時代からの友人から「年齢によって性格が変わってきて、20歳の頃は温和だったのに、45歳の今は厳しくなり、銀行と税金の話しかしない人になっている」と評されました。「まあ、それだけここ数年、艱難辛苦があったから」と、事情を知ってくれている人は分かってくれている。
●地方議員の高額議員報酬・期末手当におかしくなるだらしない親たちと身の毛もよだつ日教組。
地方議会。「毎月5日が給料日」の自治体がある。ほとんど地方議員や一般職地方公務員は知らないでしょう。他の方のお導きを支持するかたちで、友人を日本一給料が高い市議会の最も定数が大きい選挙区で好成績で押し上げることができました。名前も知らない多様な仲間が、唯一絶対の普遍的価値の達成に邁進して成し遂げました。私は、市議員報酬(及び費用弁償)条例、市政務活動費条例、期末手当の計算式が書き込まれた市条例を調べ上げてました。年間30回の本会議・委員会に出るだけで、月給平均190万円を市役所から48カ月振り込まれる。5日が給料日という珍自治体では、ゴールデンウィークはかなり繰り上がります。統一選後、一度も本会議委員会が開かれていないのに150万円もらえることになります。今日あたり出たなあ、うらやましいなあ、と思っていた頃に、議員との間に扶養関係があるのかどうか分からない日教組構成員である親から、親子間の根回しがないとみられる、本音を隠した白々しいお礼状が唐突にきました。おそらく1カ月分を私が融資していたことを後から知ったのでしょうが、私は48カ月分をもらえません。この噛み合わないやりとり。こういう地方議員の高報酬に端緒を発した噛み合わないやりとりが相次いだためにやる気を失い、参院選のさいちゅうに、国会傍聴ブログの中断を発表することになりました。
この1年間、長野市の本家と東京の分家を行き来するなかで、父の青年期に関するエピソードをたくさん仕入れました。当時は地元の地域金融機関に過ぎなかった「八十二銀行」が村立国民学校の毎月の給料日に現金を持ってきて、収入役が配っていた。祖父が1941年に収入役となり、父が1942年に小学校1年生に。教員たちは父を特別扱いした。このことから、父は教員、公職、農業に反発して石垣から投石するような不良少年に。高校を出るやいなや上京し、工業をお客様とする商業に身を投じ、独立開業、84歳で天寿を全うーーというシンプルな人生でした。私は小6で校旗の掲揚をめぐって教員を挑発して教室の壁に体ごと投げつけられ世論が動揺。「暴力教師」のレッテルを張られた彼は、私が小1小2担任だった既婚女性教員との不倫と合わせ技で別々の学校に転勤させられ、都教委を早期退職しました。私は小5のときに、集団登校班で小4の元暴力団員娘をかくまう役割をしていました。私は母から命令だと思っていたのですが、最近母に確認すると警視庁からの直接の要請だったそうです。小学校が対応できないことに手をこまねいた警視庁が防犯協力会員である私たちに直接要請してきたようです。こういった1941年以降の経緯もあり、私は日教組構成員とは話が合わないので、選挙事務所で会話が発生しないようつとめてきたのですが、唐突なお礼状で短絡してしまいました。候補者の当選という唯一絶対の普遍的な目標に向けて、選管に告示された限られた時間で、さまざまな出自を持つ運動員が黙々と運動するのが、多様性の尊重である。日教組構成員の方は、私に話しかけないでいただきたい。
もちろん、父の遺産と事業をすべて継承して、生前の父と唯一対立してた「貸店舗業開業」に向けて1周忌以降邁進してきたので、毎日の国会傍聴取材を中断したかったのは前々からですが、まあこういうことになりました。
●霞が関の国会日程混乱を私が謝罪
7月から日程を読めていたはずの、10月の参議院予算委員会の基本的質疑の直前に台風19号があり、永田町と霞が関が混乱しました。霞が関勤務のキャリアの方とそのご家族のみなさまに、お見舞い申し上げますとともに、お詫びします。このブログは当初は政権交代選挙をめざす民主党系や、マスコミ関係者の情報共有の色彩が強かったのが、やがて、永田町と霞が関の日程間の橋渡しという社会的役目を帯びてきました。
●政治ジャーナリスト国会ウォッチャーとして今後もがんばります。
この永田町と霞が関の橋渡しという社会的役目というのを、今後の政治ジャーナリスト活動では、意識を強めていきたい。
2019年は、1月から12月まで、永田町取材を続け、その写真を見ると、ほれぼれするほど、大御所の写真ばかりです。しかし、議員会館を周ることはありませんでした。
より大事なアウトプットでは、まとまった原稿を書かず、大手雑誌、インターネットテレビでの露出はありましたが減少傾向で、地上波テレビは収録後、放送直前になぜかカットされてしまいました。自分が持つ有料媒体は廃業しました。
2020年にかけ、私は政治ジャーナリストとして明るい見通しを持っており、自媒体の強化と、多媒体での執筆を旺盛にします。営業にも行きます。取材活動でも国会を大事にしたていねいな取材を再強化していきます。
NHKがインターネット常時同時配信を始めます。望むところです。きょう大晦日の朝日新聞が32ページ、読売新聞が30ページと薄くなっていますが、紙媒体との連携や協調も視野に入れていきます。2020年はメディアコンサルタントの方々と有償無償でいろいろとお話ししたいです。
健康面は常時メディカルチェックを受けており、「2020年は皮下脂肪を減らすために水泳をしましょう」というのが年末の認識であり、今の活動には全く問題のない状態に回復しています。元気溌剌です。裁判は年を越しましたが、2月14日の判決を待つ、という仕事しかありません。
●2020年も岡田克也さんへのご忠誠をお誓い申し上げます。
そして、2020年も引き続き、任意政治団体「無所属フォーラム」代表の岡田克也衆議院議員への完全なるご忠誠をお誓い申し上げます。
2020年は、政策担当秘書の衆議院総支部長転出にともない、十数年ぶりに、ホワイト企業・岡田事務所の体制が変わります。政策担当秘書1人の入れ替わりとはいえ、岡田さんが若き野党党首として国政に名を知られるようになってから、初めての体制変化となります。どちらが感謝し、どちらが期待される立場かは別として、私もしっかり目を光らせながら、全面協力していきます。徳川家康が生涯、織田信長を裏切らなかった。清州同盟をイメージしていただければ、分かりやすいでしょう。
とにもかくにも、ずいぶん良い年越しとなりました。感謝します。