2021年は完璧な一年でした。
1992年長野市に続き、2021年東京特別区でオリンピック・パラリンピックが開かれ、本籍地・出生地・現住所ともオリンピックシティーとなりました。
立憲民主党の前身政党に2010年から「新聞協会、雑協に準じるメディア」と認定されている「ニュースサイト宮崎信行の国会傍聴記」は暦年で90・8万ページビューを超えました。公開から500名しか読んでいないはずの記事が、労働界一有名な大企業正社員の目に触れてご立腹だとのことで、もはやブログジャーナリズムだから取材に応じないということはなさそうです。
4年1か月ぶりの解散から逆算して、カメラ、モバイルを装備し、見事に完成して総選挙報道を独走。4月には、長野補選で福山幹事長に「5日後の北海道2区補選の第一声には枝野代表が行く」、解散後に神奈川14区で枝野代表に「東京8区は率直に言って困惑している」、北海道1区で枝野代表に「愛知11区を困惑している」、香川1区で岡田さんに「愛知11区は何が起きたか分からないが事実として極めて重い」、埼玉5区で枝野さんに「東京6区はコメントしない」ともはや日本列島縦横無尽だという印象を与えるであろう八面六臂ぶりを見せました。高松では、「東京から来た政治記者の方ですか」と羨望のまなざしで4人の若手地元記者に囲まれ、正直気持ちよくなっちゃいましたが、名刺交換したらうち2人は四国新聞でした。
自分の中では、岡田さん、羽田さん、本庄さんや、早稲田大学鵬志会初代幹事長の和田雄一郎・日本維新の会衆議院議員のような選挙が289選挙区で思い込みをしてしまい、「立憲は140ぐらいいくだろう」と思いきや、補正係数がかかっておらず、立憲96という結果だったと思います。しかし、この補正係数がかからなかったことも、詳しくもないし、私が緩んだことが選挙結果に影響したとしても、しかたないというくらいに、地力が違う選挙でした。立憲パートナーズも、ポスティングボランティアでは駄目です。せめて総支部長と並んでビラを撒いて、支援者から話しかけられたり、敵対者から叩かれたりして、それすらいやならもうやりようはないでしょう。
伊藤英成さんと、鹿野道彦さんが亡くなりました。鹿野さんはあまり知りませんが、伊藤英成さんの番記者として、1998年4月、伊藤会長に代わって、枝野筆頭副会長がブリーフィングして、岡田会長代理が普天間・辺野古は安保部会だけでなく振興政策もかかわるべきだと発言があったとの政調役員会の取材メモを持っていました。その日から、岡田さんと枝野さんが日の当たる道を歩いてきたため私の取材はやりやすかったです。
そして、2015年の平和安全法制シールズの夏を経て、野党調整へ。しかし、2016年夏に「落とし穴」に落ち、2017年夏の代表選で枝野さんは負けながら、なぜか「立憲代表」に。岡田ネットワークも歩留まりは低かったのですが、「枝野代表・岡田代表」が4年近く続きました。この間の記者会見は書き起こしがないため、とっさに、いつどこで何を聞いたのか私もよく把握できない状態になっていますが、この岡田・枝野時代も終幕となりました。落とし穴に落とした人たちの社長・専務は元気ですが、常務クラスはみんな落選したので、菅・岡田・枝野トリオの方が元気ですが、終幕です。私より若い泉健太代表ということになり、羽田次郎さん、本庄知史さんも議員バッジを付けました。
そうはいっても、不動産賃貸業でも最大の実績を上げた1年であり、来年の飛躍も仕込みも済ませました。宮崎機械社長の立場では、ホテル・ニューオータニに居る間にスマホに電話が来て、2期連続売上高ゼロだとのことで2つの民間調査機関のデータベースから「卒業」。先方から「社長、廃業のこれからもお元気で、長生きしてください」と言われたので「そのつもりです、47歳ですし」と答えました。
インターネット報道業としては、個人資産となるカメラ・モバイル端末以外にもかなりお金を使って法人から投資しましたが、収益は全くゼロでした。一から考え直す段階に来ました。また、私は人間不信で、直接雇用ができないので業者を通して人間を動かしていますので、「直接雇用で人件費を払うより、人材派遣会社に手数料を払った方が、消費税が安くなる」ことを自分から気づいてしまいました。
法人税を申告したこともない国会議員に頭をいためつつ、ギフテッドではないけれども半ギフテッドの私が、資本に命令して生活するようになり、ますます、他人との会話が成り立たなくなりました。なので、今まで以上に当ニュースサイトで私が自説をご開陳するので、ご高説をありがたく読んで、民事不法行為が無い限りは何も言わないでほしい、会っても話しかけないでほしいとの態度をますます強くしました。ことし1件、ご寄付をいただきました。感謝します。選挙戦中に私に話しかけた人は2人いて、街頭演説を撮影していたら「どちらさまですか」という謎の質問をした総支部スタッフは候補者が女性だから警戒していたのかもしれませんが落選しました。地方議員の人は「名刺に国会議員秘書となりますが、誰の秘書だったのですか」と質問したら、その後連絡がなくなりました。そして、大企業正社員と会話が成立しないと嘆いていたら、労働界一有名な大企業正社員がご立腹ということで、事務局には「まあほとぼりが冷めそうなメーデー前後まで顔出さないようにしますか」という塩梅でいます。話しかけるなと言っているせいか、テレビ、書籍出版社からのお声がけも一切ありませんでした。
で、本当に、「枝野は総理の顔になってきたから、次の次に総理にしたい」と本気で思いました。枝福トップダウンは正しいやり方だったと今でも思います。我が故郷・東京オリンピックの「日本の59個目のメダル」は枝野さんに贈ります。
2022年に新しい目標をどうするかというと、やはり2015年の年末以来6年ぶりになりますが、岡田克也内閣をつくりたい、と考えています。いや違います。つくりたい、ではありません。岡田内閣をつくります。
政権交代あるの二大政党政治を志向して、「二大政党」でなくてもいいかなと思いますが、総選挙の1か月間だけで26・1万ページビューを稼げるという伝家の宝刀を手にして、気負わず、焦らずやっていこうと思います。向こう1年間、物量に問題はありません。
枝野代表の辞任は、岡田・枝野時代の終幕ではありません。第二幕の、前奏曲とまで言っちゃうと余裕が無さすぎますので、第二幕の序曲が演奏されている。そのように感じます。
2021年 大晦日 宮崎信行。
1992年長野市に続き、2021年東京特別区でオリンピック・パラリンピックが開かれ、本籍地・出生地・現住所ともオリンピックシティーとなりました。
立憲民主党の前身政党に2010年から「新聞協会、雑協に準じるメディア」と認定されている「ニュースサイト宮崎信行の国会傍聴記」は暦年で90・8万ページビューを超えました。公開から500名しか読んでいないはずの記事が、労働界一有名な大企業正社員の目に触れてご立腹だとのことで、もはやブログジャーナリズムだから取材に応じないということはなさそうです。
4年1か月ぶりの解散から逆算して、カメラ、モバイルを装備し、見事に完成して総選挙報道を独走。4月には、長野補選で福山幹事長に「5日後の北海道2区補選の第一声には枝野代表が行く」、解散後に神奈川14区で枝野代表に「東京8区は率直に言って困惑している」、北海道1区で枝野代表に「愛知11区を困惑している」、香川1区で岡田さんに「愛知11区は何が起きたか分からないが事実として極めて重い」、埼玉5区で枝野さんに「東京6区はコメントしない」ともはや日本列島縦横無尽だという印象を与えるであろう八面六臂ぶりを見せました。高松では、「東京から来た政治記者の方ですか」と羨望のまなざしで4人の若手地元記者に囲まれ、正直気持ちよくなっちゃいましたが、名刺交換したらうち2人は四国新聞でした。
自分の中では、岡田さん、羽田さん、本庄さんや、早稲田大学鵬志会初代幹事長の和田雄一郎・日本維新の会衆議院議員のような選挙が289選挙区で思い込みをしてしまい、「立憲は140ぐらいいくだろう」と思いきや、補正係数がかかっておらず、立憲96という結果だったと思います。しかし、この補正係数がかからなかったことも、詳しくもないし、私が緩んだことが選挙結果に影響したとしても、しかたないというくらいに、地力が違う選挙でした。立憲パートナーズも、ポスティングボランティアでは駄目です。せめて総支部長と並んでビラを撒いて、支援者から話しかけられたり、敵対者から叩かれたりして、それすらいやならもうやりようはないでしょう。
伊藤英成さんと、鹿野道彦さんが亡くなりました。鹿野さんはあまり知りませんが、伊藤英成さんの番記者として、1998年4月、伊藤会長に代わって、枝野筆頭副会長がブリーフィングして、岡田会長代理が普天間・辺野古は安保部会だけでなく振興政策もかかわるべきだと発言があったとの政調役員会の取材メモを持っていました。その日から、岡田さんと枝野さんが日の当たる道を歩いてきたため私の取材はやりやすかったです。
そして、2015年の平和安全法制シールズの夏を経て、野党調整へ。しかし、2016年夏に「落とし穴」に落ち、2017年夏の代表選で枝野さんは負けながら、なぜか「立憲代表」に。岡田ネットワークも歩留まりは低かったのですが、「枝野代表・岡田代表」が4年近く続きました。この間の記者会見は書き起こしがないため、とっさに、いつどこで何を聞いたのか私もよく把握できない状態になっていますが、この岡田・枝野時代も終幕となりました。落とし穴に落とした人たちの社長・専務は元気ですが、常務クラスはみんな落選したので、菅・岡田・枝野トリオの方が元気ですが、終幕です。私より若い泉健太代表ということになり、羽田次郎さん、本庄知史さんも議員バッジを付けました。
そうはいっても、不動産賃貸業でも最大の実績を上げた1年であり、来年の飛躍も仕込みも済ませました。宮崎機械社長の立場では、ホテル・ニューオータニに居る間にスマホに電話が来て、2期連続売上高ゼロだとのことで2つの民間調査機関のデータベースから「卒業」。先方から「社長、廃業のこれからもお元気で、長生きしてください」と言われたので「そのつもりです、47歳ですし」と答えました。
インターネット報道業としては、個人資産となるカメラ・モバイル端末以外にもかなりお金を使って法人から投資しましたが、収益は全くゼロでした。一から考え直す段階に来ました。また、私は人間不信で、直接雇用ができないので業者を通して人間を動かしていますので、「直接雇用で人件費を払うより、人材派遣会社に手数料を払った方が、消費税が安くなる」ことを自分から気づいてしまいました。
法人税を申告したこともない国会議員に頭をいためつつ、ギフテッドではないけれども半ギフテッドの私が、資本に命令して生活するようになり、ますます、他人との会話が成り立たなくなりました。なので、今まで以上に当ニュースサイトで私が自説をご開陳するので、ご高説をありがたく読んで、民事不法行為が無い限りは何も言わないでほしい、会っても話しかけないでほしいとの態度をますます強くしました。ことし1件、ご寄付をいただきました。感謝します。選挙戦中に私に話しかけた人は2人いて、街頭演説を撮影していたら「どちらさまですか」という謎の質問をした総支部スタッフは候補者が女性だから警戒していたのかもしれませんが落選しました。地方議員の人は「名刺に国会議員秘書となりますが、誰の秘書だったのですか」と質問したら、その後連絡がなくなりました。そして、大企業正社員と会話が成立しないと嘆いていたら、労働界一有名な大企業正社員がご立腹ということで、事務局には「まあほとぼりが冷めそうなメーデー前後まで顔出さないようにしますか」という塩梅でいます。話しかけるなと言っているせいか、テレビ、書籍出版社からのお声がけも一切ありませんでした。
で、本当に、「枝野は総理の顔になってきたから、次の次に総理にしたい」と本気で思いました。枝福トップダウンは正しいやり方だったと今でも思います。我が故郷・東京オリンピックの「日本の59個目のメダル」は枝野さんに贈ります。
2022年に新しい目標をどうするかというと、やはり2015年の年末以来6年ぶりになりますが、岡田克也内閣をつくりたい、と考えています。いや違います。つくりたい、ではありません。岡田内閣をつくります。
政権交代あるの二大政党政治を志向して、「二大政党」でなくてもいいかなと思いますが、総選挙の1か月間だけで26・1万ページビューを稼げるという伝家の宝刀を手にして、気負わず、焦らずやっていこうと思います。向こう1年間、物量に問題はありません。
枝野代表の辞任は、岡田・枝野時代の終幕ではありません。第二幕の、前奏曲とまで言っちゃうと余裕が無さすぎますので、第二幕の序曲が演奏されている。そのように感じます。
2021年 大晦日 宮崎信行。