政権交代ある二大政党政治の日本での実現を目指し、38年間継続して政権にあった自民党を離党。新生党・民主党の結党に参画し2度の政権交代の礎をつくった衆議院議員「ハタ」さんが亡くなりました。あれ、6年前に亡くなったのではないかと思われるでしょうが、畑英次郎さんが2023年8月4日、老衰のため亡くなりました。昭和3年9月10日生まれ。94歳。
心の中の予定稿はずっとありました。
1992年秋、改革フォーラム21(自民党羽田派)は2人の閣僚枠のうち畑さんを初入閣させるよう宮澤喜一首相に推薦しましたが、19歳年少の船田元さんを経済企画庁長官として入閣させ「田中角栄さんより早い38歳の初入閣」と報道されました。この際、小沢一郎元自民党幹事長が、畑さんと船田さんを握手させ、収まったとされます。
あの日。1993年6月18日の衆議院本会議では、小沢さんの次に畑さんが白票を参事に渡すのが一部ニュース映像で確認できます。
政権交代。満を持して、細川護熙内閣で羽田孜副総理外相、畑英次郎農相となり、直近最悪の平成5年冷害とWTOウルグアイラウンドに臨みます。そのため、より主要とされる通産大臣として羽田内閣の2カ月をともにしました。
新進党結党にも参画しました。が、このころから、かつてのドン、小沢一郎氏を激しく批判しました。何があったか分かりませんが、結党35議員の中でも最も批判的だったとされます。
第2回党首選挙の、小沢一郎陣営による許しがたい不正選挙に敗れた、羽田孜陣営は太陽党を結党し、畑さんは行動をともにします。羽田陣営の岡田克也さんは新進党に残りました。なお、当時学生の私は、総支部長の人間関係から小沢陣営でかなり一生懸命やりました。だから、不正の内情もある程度知っています。
1997年12月、本当に新進党は解党してしまいました。小沢さんは25億円の現金を溜池山王のビルから、5階建ての戸田ビル(旧新生党本部)に疎開させました。這う這うの体の石井一さん・岡田克也さんコンビも含めた勢力で「政権戦略会議」(細川議長)に集いました。
全共連ビルといって、都市センターホテルの近くにあるビルに、その当時だけ、太陽党本部・羽田事務所がありました。
新生党学生部結成メンバーの私は、当時は、日本経済新聞政治部記者として、総理番を卒業して、衆議院第五控室の野党記者クラブに在籍しました。この際、羽田さんの党の担当の山口記者のサブをつとめます。私個人は、旧民社党勢力の中野寛成代表・伊藤英成幹事長・岡崎事務局長らの番記者をつとめました。
ある日、中野事務所周辺から、中野寛成・羽田孜・細川護熙の「3党党首会談」が全共連ビルの太陽党本部で行われるとの情報を得ました。中野さんにピッタリついて行った先は3記者ほどしかいなかったと思います。
太陽党本部に初めて入りましたが、羽田さんの北沢英男秘書らが切り盛りをしているようでした。時間が遅くなるかもしれないと、コンビニからおにぎりを用意していました。
党首会談は意外と早く終了。立ち話で余韻を楽しむような雰囲気でした。
この際、畑幹事長は、おにぎり用意したのに無駄になりましたよ、との声に「お、議員宿舎で男やもめ(東京では単身生活の意味)だから、もらって帰るかな」とうれしい表情。そこで、私を見た畑さんが急に驚いた表情になりました。
私は野党クラブでは異例の「1998年民主党結党」という今日まで続く歴史的局面の取材で、その日は、肌がかなり荒れて、多少の無精ひげが生えていました。
畑幹事長は、至近距離から目を見開きながら、私を見て、上から下まで、靴先まで見て、また私の顔を見ました。
ポマードでしっかり横髪を後ろに固めた、畑幹事長は当時70歳だったことになります。端正な顔立ちながら、無言で目を見開いた畑さんは、私には「おしんで俳優転向に成功した直後の伊東四朗さん特有の目を見開いた表情」に似ていた印象をずっと持っています。
農林・通商産業大臣歴任者から至近距離で無言で見られる私。そして畑さんはさらに超至近距離まで顔を近づけて、私にこう言いました。
「あんた、ずっとここにいたよね」。 私が学生時代に、新生党本部や院内控室で、北澤参議院議員や北沢秘書、俊成職員、佐藤公治秘書会青年部長、金指良樹公設秘書らと会話している姿をどこかで見たことがあったのでしょう。ひょっとすると羽田孜党首だったかもしれません。頻繁にやっていた新宿駅西口の街頭演説会かもしれません。私は常に学生数人といたはずです。
それから、短く長い数年が流れ、畑さんは幹事長とはいえ小所帯。私は新聞記者となり、野党担当となりましたが、旧民社がメーン。全共連ビルが党本部・羽田事務所だった時期は短いのですが、どこかで見た記憶があったのでしょう。
それから、畑民主党初代副代表は、小沢さんと和解することなく、引退しました。
羽田さんは畑さんに「たまには東京に出てきたらどうだい」と手紙を書きました。返事はありませんでした。
あの夏から、30年が過ぎて、新生党結党メンバーで、連続当選し、自民党に戻ったり、自民党が参加した連立政権に入ったことが一日もないのは、最年少だった(実年齢は船田大臣が数カ月若い)岡田克也衆議院議員だけという惨状となりました。
立場は違いますが、岡田代議士、金指秘書、そして学生部員でもおそらく私・宮崎信行だけが30年間ずっと「非自民」で、二度の政権交代を自分たちの手で成し遂げられたのは、精神力ではなく、経済力です。それは若い人には知ってもらいたい。私がそれから四半世紀以上経った今日現在までずっとここにいられるのは、精神力ではなく経済力があったからです。
それから、畑さんが引退した後に、インターネットの時代になって、初めて知ってびっくりしたことがあります。ムツゴロウの動物王国の畑正憲さんは甥だそうです。私の子供のころには視聴率30%、教科書にも載っていました。目を見開いて、人を観察するしぐさはむべなるかなと思いました。
心から哀悼の意を表し、私からはご冥福をお祈りいたします。