[写真]岡田克也さん、2016年5月13日、筆者・宮崎信行撮影。
岡田克也さんは、さきほど、平成29年2017年12月22日(金)、メールマガジンなどを発信しました。
この中で、「党の幹部同士が話し、方向性を出したうえで、統一会派結成をアナウンスすべきだ」としました。
衆議院統一会派の結成は、政党内ではなく、参加する党の幹部同士が話し合って方向性を決めてから、党に持ち帰るのが筋だとの認識を示したものです。
民進党(民主党から改称)では、2007年の参院選躍進後、小沢一郎代表が、直嶋正行参議院議員を結党以来初めて、党本部政調会長に抜擢。直嶋さんは分を守りましたが、岡田克也幹事長らが、輿石東参議院議員を後任にすえてから、参議院の分際で、生意気な議員が増え、現在に至ります。私は、「民主党参議院議員よ、吉田之久になれ!」と通じようがないことを主張していたら、下野の1か月前になって、馴染みの政策秘書から「ところで、宮崎さん、何を隠そう、私、吉田之久の政策秘書だったんですよ」と言われたことがあります。
さて、きょうの読売新聞に、ステキな政治家の近況が、20年ぶりになりました。比嘉鉄也さんです。誰だよ?というところでしょう。
[写真]きょう2017年12月22日付の読売新聞4面。
比嘉鉄也さんは、唯の一つも基地が無い、名護市長だった1997年12月24日、首相官邸内で橋本龍太郎首相(自民党総裁)と会い、「普天間を引き受けましょう」と、同じ沖縄県内の宜野湾市を助けるために、辺野古崎沖の埋め立て基地の建設を容認しました。そして、廊下で待ち構える記者の前で、市長辞任を発表しました。官邸内で市長辞任を発表した市長は、比嘉さんだけかもしれません。
その後の市長選では、後継者となった前市議が当選。そのまた4年後にも後継者は当選。このとき、あのとき官邸にいた記者が那覇支局記者となっており、万歳する市長の斜め後ろに比嘉前市長が入った写真を撮り、打電しました。ただし、キャプション(絵解き)ではさすがに、現市長の名前だけになっていました。その後、後継者が亡くなり、比嘉さんは健在だという認識はありましたが、きょうの読売政治面には、比嘉さんが90歳で読売新聞のインタビューを受けた、と写真入りで載せました。「基地問題はもう終わりにしてほしい」、とのことです。
こういう風に、人として信頼されている人は、20年後も新聞記事になる。
この、1997年12月24日は金曜日でした。午後6時ごろから、官邸内の携帯電話が通じなくなり、各社の報道体制に支障が出ました。携帯電話網が混雑したのは、電通商法の総本山・赤坂プリンスホテル周辺で携帯電話で連絡を取りあう人でもいたのでしょうか。そして、そしてその3日後、赤坂プリンスホテルで新進党が解党されてしまいました。1997年11月の山一拓銀ショック以降、何もよくなっていないのが、この20年間と言えるでしょう。
羽田孜先生や私の菩提寺である、真言宗智山派に代表される、仏教のように、輪廻転生を信じれば、そのうちなんとかなるでしょう。
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(C)2017年、宮崎信行。
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Miyazaki Nobuyuki