(長篠の戦い設楽原大宮前激戦地 愛知県新城市大宮・竹広・八束穂)
天正三年(1573)連吾川を挟んで織田・徳川連合軍と武田勝頼軍が決戦を行った激戦地の一つに、この大宮前激戦地がある。この辺りでは、織田軍佐久間信盛が陣を敷く北隣の丸山(陣砦)を武田軍馬場信房が占領し、その後丸山前方で武田軍真田信綱、真田昌輝、土屋昌次、穴山信君、一条信龍らと、織田徳川軍佐久間信盛、蒲生氏郷、佐々成政、滝川一益、羽柴秀吉、丹羽長秀、前田利家、水野信元、森長可らが激戦を繰り広げた場所でもある。
武田軍土屋昌次が戦死した織田徳川軍馬防柵(鉄砲隊配置場所)付近に、昭和56年「設楽原をまもる会」によって往時の馬防柵を再現、毎年7月にはそこで設楽原決戦場まつりが行われている。
(徳川軍馬防柵)
(織田軍馬防柵)
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天正三年(1573)連吾川を挟んで織田・徳川連合軍と武田勝頼軍が決戦を行った激戦地の一つに、この大宮前激戦地がある。この辺りでは、織田軍佐久間信盛が陣を敷く北隣の丸山(陣砦)を武田軍馬場信房が占領し、その後丸山前方で武田軍真田信綱、真田昌輝、土屋昌次、穴山信君、一条信龍らと、織田徳川軍佐久間信盛、蒲生氏郷、佐々成政、滝川一益、羽柴秀吉、丹羽長秀、前田利家、水野信元、森長可らが激戦を繰り広げた場所でもある。
武田軍土屋昌次が戦死した織田徳川軍馬防柵(鉄砲隊配置場所)付近に、昭和56年「設楽原をまもる会」によって往時の馬防柵を再現、毎年7月にはそこで設楽原決戦場まつりが行われている。





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