そんななか、夕方に聞こえた救急車は、列車飛び込み事故の救護であることがわかった。
然し、亡くなってしまった。
私の母校の前で、その生徒の中学生が飛び込んだのだ。
進路に関して悩んでいたそうだ。
私も悩みがなかなか理解してもらえず、さらに悩んだときがあった。
然し、命を捨てるところまで至る前に、父や身近な大人に支えてもらうことができた。
今何か隔たりを感じるものがある。
大人と子ども、深い意味での「距離感」ではないだろうか。
先程のニュースでも、この事件を伝えていた・・
(愛媛県松山市石手)
道後公園の東には、四国八十八ヵ所巡礼五十一番札所の真言宗熊野山石手寺がある。私は、今まで各所で札所に通じるいわゆる「へんろ道」を歩き、山門をくぐるのだが、その道中、殆ど「お遍路さん」を見かけない。然し、境内に入ると突如現れる。やはりバスや自家用車行脚が増えてきているようだ。
神亀五年(728)国司越智玉純が、夢に二十五菩薩の降臨を見て、この地に熊野十二社権現を祠り勅願所と定めたのが始まりという。翌年の天平元年(729)行基により本尊薬師如来が開眼され、法相宗安養寺となった。
奈良時代の伝説に、次のようなものがある。
伊予国浮穴郡荏原(現松山市)に「衛門三郎」という欲深い長者がいた。ある日托鉢の僧を弘法大師とは知らずに、その托鉢を取り上げ投げつけたところ、鉢は八つに割れてしまった。その後、長者の八人の男の子が次々と死に、そのことから三郎は改心して四国巡拝に旅立った。そして大師に会えぬまま、巡礼二十一回目の天長八年(831)阿波国焼山寺の麓で病に倒れた。そのとき弘法大師が枕元に現れ、一寸八分の石に「衛門三郎」と刻み彼の手に授けると三郎は安心して息を引き取ったという。
寛平四年(892)国司河野息利(おきとし)に男子が生まれた。その子は右の手を握ったまま開かなかった。そこで安養寺に願をかけたところ、手の中から「衛門三郎」と書かれた石が出てきた。そしてこの石を寺に納め、寺名を石手寺と改めたという。
永禄九年(1566)七堂伽藍六十六坊を有した石手寺も、長曽我部氏により焼打ちに遭い、伽藍を焼失した。往時から残るものに、文保二年(1318)建造の本堂、三重塔、本堂、仁王門と、元弘三年(1333)建造の鐘楼、ほぼ同時期に建立されたものに、護摩堂、詞梨帝母天堂がある。これらは、国宝、重要文化財に指定されている。
境内を歩くと、愛媛パコダの建物や、「ミャンマー軍政権云々の」文字が目に入る。「仏教改革しませんか」や、「今仏教を問う」「ボランティア」等の言葉もあった。私自身の経験からも、疑問を感じる今の仏教界に対しての強い取り組みが感じられた。