(岐阜城居館 千畳敷御殿 市指定史跡)
岐阜公園へは、数え切れない程訪れている。
訪れる度に少しずつ姿を変える公園。今回、山麓居館跡最奥部の3区と設定されている調査地点から火災の跡とみられる遺構が見つかり、踏査してみることとした。
金華山(稲葉山)の山頂は城郭、麓は居館跡である。
永禄十年(1567)城主斎藤龍興を追放し、信長はこの地に居を構えた。二年後、岐阜を訪れたポルトガルの宣教師ルイス・フロイスは、自身の記録の中で信長の館を「宮殿」と称し、華麗な内部の様子であったことを伝えている。
昭和59年(1984)岐阜市制100年記念事業として、信長居館の復元計画が出された。そして千畳敷及び千畳敷下の発掘調査が始まり、昭和62年(1987)まで続けられた。それにより居館虎口とされる入口、通路、水路及び石積みが検出され、その後整備、遺構の再現が成され、史跡公園化された。
(以上1990年5月27日撮影)
(水路)(下層石積み)(入角・出角石積み)
昭和63年(1988)より、加藤栄三・東一記念美術館建設に伴って第二次調査が開始され、台所と思われる遺構と、古墳が検出されている。
平成9年(1997)水族館等があった場所に「信長の庭」が築造されることとなり、第三次調査が開始され、信仰施設(伊奈波神社前身か)の遺構及び遺物が検出された。
(家臣屋敷跡)
そして平成19年、城下町遺跡家臣屋敷跡とされる岐阜公園駐車場の一部を1区として発掘調査し、続いて第一次調査地点の北西側(2区)調査が開始され、庭園とみられる石列遺構が検出されている。
(調査2区)
続けて行われた北側の3区調査で、焼土遺構や礎石が検出された。
(調査3区)
未検出の居館そのものの遺構を含め、今後の動向が楽しみである。
(関連記事:平成20年度発掘調査 Landmark Gifu Castle)
岐阜公園へは、数え切れない程訪れている。
訪れる度に少しずつ姿を変える公園。今回、山麓居館跡最奥部の3区と設定されている調査地点から火災の跡とみられる遺構が見つかり、踏査してみることとした。
金華山(稲葉山)の山頂は城郭、麓は居館跡である。
永禄十年(1567)城主斎藤龍興を追放し、信長はこの地に居を構えた。二年後、岐阜を訪れたポルトガルの宣教師ルイス・フロイスは、自身の記録の中で信長の館を「宮殿」と称し、華麗な内部の様子であったことを伝えている。
昭和59年(1984)岐阜市制100年記念事業として、信長居館の復元計画が出された。そして千畳敷及び千畳敷下の発掘調査が始まり、昭和62年(1987)まで続けられた。それにより居館虎口とされる入口、通路、水路及び石積みが検出され、その後整備、遺構の再現が成され、史跡公園化された。
(以上1990年5月27日撮影)
(水路)(下層石積み)(入角・出角石積み)
昭和63年(1988)より、加藤栄三・東一記念美術館建設に伴って第二次調査が開始され、台所と思われる遺構と、古墳が検出されている。
平成9年(1997)水族館等があった場所に「信長の庭」が築造されることとなり、第三次調査が開始され、信仰施設(伊奈波神社前身か)の遺構及び遺物が検出された。
(家臣屋敷跡)
そして平成19年、城下町遺跡家臣屋敷跡とされる岐阜公園駐車場の一部を1区として発掘調査し、続いて第一次調査地点の北西側(2区)調査が開始され、庭園とみられる石列遺構が検出されている。
(調査2区)
続けて行われた北側の3区調査で、焼土遺構や礎石が検出された。
(調査3区)
未検出の居館そのものの遺構を含め、今後の動向が楽しみである。
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