(地蔵ヶ岳城 愛媛県大洲市 櫓:国指定重要文化財・県指定史跡 日本100名城82番 日本の歴史公園100選214番)
肱川を渡り、大洲城へと向かう。
肱川に迫り出すように天保十四年(1843)再建の「苧綿(おわた)櫓」がある。その上方には本丸があり、再現天守、台所櫓、高欄櫓があるが、本丸と苧綿櫓の間、二の丸跡には、それ以上にインパクトがあるというか、非常に違和感のある大洲市民会館が建っている。確認せずとも'60年代を感じさせるデザイン、構造、材質の巨大建物である。
(苧綿櫓)
市民会館の横には下台所土蔵が残り、その向こう側の奥御殿跡の間から、本丸へ上がることができる。
(右:下台所)
平成16年に木造再現された、四層四階の天守と多聞櫓、そしてその両脇には、安政六年(1859)再建の台所櫓と、万延元年(1860)再建の高欄櫓がある。
(高欄櫓内部)
大洲城の前身は元弘元年(1331)宇都宮豊房によって築かれた。豊房以後八代、伊予宇都宮氏は続いたが、永禄十一年(1568)豊綱のとき河野・毛利勢に攻められ滅亡、宇都宮氏家老の大野直之の城となった。直之は、初め河野氏の属したが、後に長曽我部氏、そして天正十三年(1585)秀吉の四国征伐後は小早川隆景に属した。そして天正十五年(1587)には秀吉臣戸田勝隆が十六万石で入城、然し文禄慶長の役の際病没し、子も早世していたため一代限りとなった。文禄四年(1595)からは藤堂高虎の縄張りとなる。
(本丸井戸)
徳川時代に入ると、慶長十四年(1609)淡路洲本より脇坂安治が五万三千五百石で入った。安治の子安元は元和三年(1617)信濃飯田に転封、代わって伯耆米子より加藤貞泰が入城し、以後十三代、廃藩まで加藤氏が続いた。
本丸、二の丸を後にし、三の丸跡に残る明和三年(1766)再建の南隅櫓へ向かう。
加藤氏裔所有という櫓周囲は、大洲高校や民家が建ち並んでいる。
続いて、城下の東方、旧大洲藩庭園であった肱川沿いの高台にに建てられた、臥龍山荘に向かった。
明治40年(1907)地元の貿易商が私財を投じて、和館でありながら、当時の最高技術を用い、構想十年建築四年、述べ九千人の手をかけ、桂離宮、修学院離宮等をモデルにした「臥龍山荘」が建てられた。訪れた際、管理の方から詳しい経緯から建築の逸話、工夫を凝らした内部構造や四季の移り変わり等のご説明を受けた。園内には、本棟の「臥龍院」、浴室を改造して造られた茶室「知止庵」、肱川臥龍淵に迫り出し、「捨て柱」(生木を柱に見立てている)を用いた「不老庵」がある。
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