(牛頭天王祇園宮 旧村社 愛知県豊川市大木町山ノ奥)
明治8年(1875)牛久保八幡神社祠官島田四郎が記した、『宝飯郡第十二大区三小区神社誌』の二社目に掲載されている。
同神社に伝わる文書には、起源等を伝えるものが残っていないが、元文年間の記録『三河国二葉松』には、「天正十五(1578)丁亥十一月大木村天王社(後の進雄神社)棟札在之」とあり、大木進雄神社棟札には、「奉造立牛頭天王祇園宮一宇棟冊郷内安穏諸額成就皆令満足所(中略)十二月吉日 願主時之地頭松平兵庫助並家 源造殿」とある。これは天文元年(1533)の火災で焼失した社殿を再建したものであるとしている。また、徳川家康が、長篠の戦いの前に戦勝祈願をしたと伝えられている。
境内には江戸時代に建てられた神仏習合時代の神宮寺(現社務所)の建物が残るが、明治初年の神仏判然令によって本尊の十一面観音は、曹洞宗本野山大樹院(大木町新町通)に移され、社名も進雄(スサノオ)神社と改められた。また、神社西側の鶯沢の谷を越えた「西宮」には、蛭子命(ヒルコノミコト)を祀る柏木神社があり、進雄神社の御旅所となっている。同神社資料等によると、柏木神社(西宮大明神)は永享八年(1436)大木、千両村境の加多遍羅山から遷宮したものという。
昭和60年頃の古老の伝承には、「進雄神社にはかつて城があり、そのお殿さんが木戸の砦へ戦いを仕掛け、領土を広げた」というものがある。進雄神社に残る鎌倉中期とみられる宝筐印塔があることや、城跡伝承等から、鎌倉時代の熱田大宮司裔篠田氏も、この地域に関わりがあった可能性もあると推測する。(西原城館)
(境内図面)
(境内詳細)