(愛媛県今治市阿方)
阿方(あがた)に差し掛かるのは、昭和57年に「阿方貝塚」に訪れて以来である。
阿方の集落を歩いていると、地区の民俗行事「阿方獅子舞」の絵が建物の壁に描かれていた。また、その傍には越智孫兵衛、熊太郎顕彰碑がある。旧阿方村の庄屋であった越智孫兵衛は、年貢の減免を直訴し、それが受け入れられ飢饉を乗り切ったという。その孫兵衛の墓碑及び宝筐印塔(供養塔)が延命寺境内にある。
四国八十八ヶ所巡礼第五十四番札所、真言宗近見山宝鐘院延命寺は、天平年間(729-748)に行基によって北側の近見山頂に開基創建されたが、その後衰退し、空海が嵯峨天皇の勅願を受けて再興している。その後動乱の世となり、応永年間(1394-1427)に河野氏臣重見氏が近見山に城を構えたため、享禄、永禄、天正の頃に兵火によって荒廃、再建の度に移動し、享保十二年(1727)に現在地に移っている。また、五十三番札所円明寺との混同を避けるため、明治に入り、「円明」から「延命」と文字を改めている。
境内には、江戸前期の僧真念建立の標石(道標)があり、また、山門は今治城廃城の際に移築した城門である。
(関連記事:へんろ道別宮(南光坊) へんろ道日高(泰山寺) へんろ橋(蒼社川))
阿方(あがた)に差し掛かるのは、昭和57年に「阿方貝塚」に訪れて以来である。
阿方の集落を歩いていると、地区の民俗行事「阿方獅子舞」の絵が建物の壁に描かれていた。また、その傍には越智孫兵衛、熊太郎顕彰碑がある。旧阿方村の庄屋であった越智孫兵衛は、年貢の減免を直訴し、それが受け入れられ飢饉を乗り切ったという。その孫兵衛の墓碑及び宝筐印塔(供養塔)が延命寺境内にある。
四国八十八ヶ所巡礼第五十四番札所、真言宗近見山宝鐘院延命寺は、天平年間(729-748)に行基によって北側の近見山頂に開基創建されたが、その後衰退し、空海が嵯峨天皇の勅願を受けて再興している。その後動乱の世となり、応永年間(1394-1427)に河野氏臣重見氏が近見山に城を構えたため、享禄、永禄、天正の頃に兵火によって荒廃、再建の度に移動し、享保十二年(1727)に現在地に移っている。また、五十三番札所円明寺との混同を避けるため、明治に入り、「円明」から「延命」と文字を改めている。
境内には、江戸前期の僧真念建立の標石(道標)があり、また、山門は今治城廃城の際に移築した城門である。
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