(愛媛県松山市石手)
道後公園の東には、四国八十八ヵ所巡礼五十一番札所の真言宗熊野山石手寺がある。私は、今まで各所で札所に通じるいわゆる「へんろ道」を歩き、山門をくぐるのだが、その道中、殆ど「お遍路さん」を見かけない。然し、境内に入ると突如現れる。やはりバスや自家用車行脚が増えてきているようだ。
神亀五年(728)国司越智玉純が、夢に二十五菩薩の降臨を見て、この地に熊野十二社権現を祠り勅願所と定めたのが始まりという。翌年の天平元年(729)行基により本尊薬師如来が開眼され、法相宗安養寺となった。
奈良時代の伝説に、次のようなものがある。
伊予国浮穴郡荏原(現松山市)に「衛門三郎」という欲深い長者がいた。ある日托鉢の僧を弘法大師とは知らずに、その托鉢を取り上げ投げつけたところ、鉢は八つに割れてしまった。その後、長者の八人の男の子が次々と死に、そのことから三郎は改心して四国巡拝に旅立った。そして大師に会えぬまま、巡礼二十一回目の天長八年(831)阿波国焼山寺の麓で病に倒れた。そのとき弘法大師が枕元に現れ、一寸八分の石に「衛門三郎」と刻み彼の手に授けると三郎は安心して息を引き取ったという。
寛平四年(892)国司河野息利(おきとし)に男子が生まれた。その子は右の手を握ったまま開かなかった。そこで安養寺に願をかけたところ、手の中から「衛門三郎」と書かれた石が出てきた。そしてこの石を寺に納め、寺名を石手寺と改めたという。
永禄九年(1566)七堂伽藍六十六坊を有した石手寺も、長曽我部氏により焼打ちに遭い、伽藍を焼失した。往時から残るものに、文保二年(1318)建造の本堂、三重塔、本堂、仁王門と、元弘三年(1333)建造の鐘楼、ほぼ同時期に建立されたものに、護摩堂、詞梨帝母天堂がある。これらは、国宝、重要文化財に指定されている。
境内を歩くと、愛媛パコダの建物や、「ミャンマー軍政権云々の」文字が目に入る。「仏教改革しませんか」や、「今仏教を問う」「ボランティア」等の言葉もあった。私自身の経験からも、疑問を感じる今の仏教界に対しての強い取り組みが感じられた。
岐阜公園へは、数え切れない程訪れている。
訪れる度に少しずつ姿を変える公園。今回、山麓居館跡最奥部の3区と設定されている調査地点から火災の跡とみられる遺構が見つかり、踏査してみることとした。
金華山(稲葉山)の山頂は城郭、麓は居館跡である。
永禄十年(1567)城主斎藤龍興を追放し、信長はこの地に居を構えた。二年後、岐阜を訪れたポルトガルの宣教師ルイス・フロイスは、自身の記録の中で信長の館を「宮殿」と称し、華麗な内部の様子であったことを伝えている。
昭和59年(1984)岐阜市制100年記念事業として、信長居館の復元計画が出された。そして千畳敷及び千畳敷下の発掘調査が始まり、昭和62年(1987)まで続けられた。それにより居館虎口とされる入口、通路、水路及び石積みが検出され、その後整備、遺構の再現が成され、史跡公園化された。
(以上1990年5月27日撮影)
(水路)(下層石積み)(入角・出角石積み)
昭和63年(1988)より、加藤栄三・東一記念美術館建設に伴って第二次調査が開始され、台所と思われる遺構と、古墳が検出されている。
平成9年(1997)水族館等があった場所に「信長の庭」が築造されることとなり、第三次調査が開始され、信仰施設(伊奈波神社前身か)の遺構及び遺物が検出された。
(家臣屋敷跡)
そして平成19年、城下町遺跡家臣屋敷跡とされる岐阜公園駐車場の一部を1区として発掘調査し、続いて第一次調査地点の北西側(2区)調査が開始され、庭園とみられる石列遺構が検出されている。
(調査2区)
続けて行われた北側の3区調査で、焼土遺構や礎石が検出された。
(調査3区)
未検出の居館そのものの遺構を含め、今後の動向が楽しみである。
(関連記事:平成20年度発掘調査 Landmark Gifu Castle)
年明け早々、知人らと旅行に行き、出先で腹を壊したといって帰ってきた。
その夜から、食べ物を受け付けなくなった。
その後、点滴などを受け、容態をみていたが、日に日に抵抗力が無くなり、死相が現れ始めていた。そして前日には呼吸がしにくくなり、意識が朦朧となって、あの世へ旅立った。
死因は、心筋梗塞ということであった。
その日から私は天涯孤独となった。
そして負債を背負い、返済に奔走した。
翌日、葬儀を行った。
その日は阪神淡路大震災の起った日であった。
参列者が私に、「お父さんは寂しくないよ、大勢の人と旅立ったよ」
そして私に「これからお父さんは一心同体だよ」といった。
父は生前、「死んでもお前を守ってやる」といっていた。
「たまには姿を現してやるからな」と冗談もいっていた。
その後私は、周囲の人から「顔つきが変わった」とよくいわれるようになった。
それは、私の肩に乗る重みと、今後の動向は私が如何にするかしかないことを感じたからだった。
今夜、父の好きだったコーヒーと、甘いお菓子を供えて、父のことを思いながら休もうと思う。
私が幼い頃から訪れている新城は、「山の湊」と呼ばれ、江戸時代にその政治的役割を担ったのが新城城(しんしろじょう)である。
天正三年(1575)長篠の戦いで織田徳川連合軍が勝利し、長篠城主奥平貞昌は信長の一字を賜り信昌と名乗った。そして家康の娘亀姫を室とし、翌年新城城を築城した。
天正十八年(1590)家康の関東移封に伴って、奥平氏は上野富岡へ移った。代わって新城は吉田藩領となり、池田輝政臣片桐俊元が新城城に入って、隣村石田村にも石田城を築いた。「関ヶ原」以後は天領となったが、慶長十一年(1606)尾張緒川より水野分長は新城城へ入城した。そして正保元年(1645)水野元網のとき上野安中に移封、新城は再び天領となったが、慶安元年(1648)には菅沼定実が七千石で入城、以後十一代定長まで菅沼氏が続き、廃城となった。
(1983年撮影)
新城城は、豊川と田町川、幽玄川を自然の外堀とし、そして本丸周囲に堀と土塁を築いた城である。明治2年(1869)の廃城後は新城尋常高等小学校となり、本丸跡は運動場となった。そして昭和6年(1931)運動場拡張に伴って、北東部土塁を崩し、堀も埋められた。更に昭和22年(1947)には西部土塁を崩し、また堀も埋められた。現在は豊川付け根の東西土塁の一部が残るのみで、堀も豊川に面した側に痕跡を残すのみである。
(大正11年建造の校舎)
平成16年からは街路整備計画により、新城城裏門のあった、亀姫の墓のある大善寺前の道路拡幅工事が始まっている。
(大善寺境内1983年撮影)
(裏門跡2007年撮影)
(関連記事:桜渕笠岩)
朝を迎え、松山城のある勝山の麓に向かってみる。
右手に司馬遼太郎の作品を紹介する「坂の上の雲ミュージアム」があり、辺りは「番町遺跡」という弥生時代から松山藩城下町時代の遺構が検出されたところでもある。そこから坂を上がっていくと、江戸時代に家老屋敷が建っていた場所に洋館が建つ。大正11年(1922)藩主裔久松定謨(さだこと)の別邸として建てられたもので、RC造地下1階地上3階、延床面積888㎡のフランス様式建築である。 第二次世界大戦後は接収され米軍将校宿舎となり、昭和27年に家庭裁判所、昭和30年からは愛媛県立郷土芸術館となり、昭和54年に愛媛県立美術館分館郷土美術館となって現在に至っている。
訪れたこのときは、年明けから始まる修繕、耐震工事に向けての打ち合わせが行われているときであった。
この後は市電に乗り道後公園に向かった。
2年半振りの深溝の地。
寛喜三年(1231)大庭(大場)朝満が深溝城を築いたこの地は、宝飯郡と幡豆郡に接し、吉良道(平坂街道)が通っていた。その後、深溝の地には大庭氏に代わって松平氏が進出し、深溝城に居城、深溝松平家を名乗った。慶長十九年(1614)松平忠利のとき、吉田城に移り深溝城は陣屋となった。その後は一万一千八百石で板倉重昌が入り、寛永十六年(1639)子の重矩のとき額田郡中島に移り廃藩となっている。
現在城跡及び陣屋跡は工場団地となり、遺構は殆ど無い。周囲より一段高い丘陵地が往時を偲ばせている。また、城跡北東部に「兵九下」(ひょうくした)という地名が残る。「深溝紀略」(大正14年)には、大永四年(1525)大庭次郎左衛門主膳の家臣兵九が松平忠定に内応し、忠定を深溝城内に導き次郎左衛門の首をあげたと伝えている。故にこの兵九の屋敷があった下辺りを「兵九下」と呼んでいる。
北側には正慶元年(1332)上杉頼重の子日静が開山し、大庭朝泰が創建した日蓮宗誉師山長満寺があり、その東側には大庭氏、松平氏、板倉氏が崇敬し、往時は午頭天王宮と称した鎮守深溝神社がある。
(深溝松平家廟所) (本光寺)
深溝松平家初代忠定が享禄元年(1528)に創建した曹洞宗瑞雲山本光寺は当初、城の西側にあったが、その後松平氏の移封により何度となく分離移転合併を繰り返し、明治5年(1872)末寺の浄林寺合併を最後に現在の姿となった。境内には深溝松平家初代忠定からの代々墓がある。 深溝松平家二代好景は、永禄四年(1561)吉良氏との戦いで幡豆郡善明堤において討死した。字西向野の本光寺(旧跡)には首塚が存在する。
深溝城東側には、享禄二年(1529)に松平忠定室で、松平清康の娘清春が開基したという浄土宗泉流山三光院がある。旧跡は西隣逆川(さかさがわ)村にあったという。
お祝いのメッセージをたくさんいただきました ありがとうございました
…さて、1月生まれでいつも思うこと。
今まで出会ってきた多くの(実際に面識のある人)同じ誕生日や、1月生まれの人をみてみると、個性が突出しているというか、ワンマンというか、マイペースというか…
私自身を含め、いわゆる変人?と思う人が多かった。
で、多い職業の人は、一人職業の芸術家、医師、教員、自営業などが多かった。
はて、私はどの位置付けとなるのか…
私がこのシーズンであるため、なんとも言えず…ただ、一風変わった人間であることは、十分感じているつもりだが…。
(伊予鉄道松山市内線 愛媛県松山市)
凡そ2年4ヶ月振りの県都松山。夜の軌道通りを歩いてみる。
松山市内線は、城北線と本町線、城南線、そして大手町線、花園線からなる総延長9.6kmの路面電車である。
城北線は、市内線唯一の「鉄道線」で明治28年(1895)道後鉄道として開業し、5年後には伊予鉄道道後線となった。昭和2年(1927)には城北線に編入となっている。
本町線は、明治40年(1907)城南線は、明治44年(1911)松山電気軌道として開業し、大正10年(1921)には伊予鉄道城南線、本町線となった。
大手町線は、昭和2年(1927)に開業、鉄道線である高浜線と平面交差(#)をしている。
花園線は、鉄道線の松山市駅とを結ぶため、昭和22年(1947)開業した。
道後から「坊ちゃん列車」が時折通り過ぎ、往時の風情を今に伝えている。やはり、一県に一ヶ所は、このような交通機関はあってもよいだろう。
(関連記事:松山城 萬翠荘 道後 湯築 寶巌寺)
臥龍山荘から再び町並みへと戻ると、肱川沿いの一角に煉瓦の建物が見えた。
明治33年、34年(1900-01)に建造された、本館煉瓦造瓦葺2階建て、延床面積256㎡と、倉庫棟煉瓦造瓦葺2階建て、延床面積313㎡、そして別棟煉瓦造平屋建て、40㎡からなる擬洋風建築(和洋折衷)の銀行建物である。
戦後、警察署、商工会議所等に使用されたが、平成3年「おおず赤煉瓦館」という観光施設として生まれ変わった。
大洲商業銀行の煉瓦積み方式は英式で、その一つに指の跡があるのが面白い。
※煉瓦積み方式
仏式…一列の中で、長手(細長い面)と小口(小さい面)を交互に並べ、次の段は入れ違いになるようにずらしていく積み方。
英式…長手の段と小口の段を段々に重ねていく積み方。
独式…長手をジグザグに積んでいく長手積み、小口をジグザグに積んでいく小口積みの方式。
開智学校の隣にあるこの建物は、元々松本城北東側武家屋敷跡(現カトリック松本教会)にあったものであり、平成2年(1990)街路拡幅工事の際、教会が市へ寄贈し、現在地へ移転補修したものである。
明治22年(1889)仏人神父によって建てられ、木造2階建て、延床面積203m²,外観はアーリーアメリカン(近代アメリカ)様式の宣教師館(住居)であり、以後移転まで教会施設として使用され続けた。 1階には玄関、事務室、応接室、食堂、台所、風呂があり、2階には4つの個室、双方にはベランダが設けられ、各部屋には暖炉も設けられている。
私は西洋建築が非常に落ち着くと感じる純日本人だが、次が控えているのでこの場所を離れることにした。続いて上田市に向かう。
丘陵南端に築かれた城であり、南北朝時代、新田氏臣高田(竹本)政季が築城したとされ、明応年間には牧野氏が居城し、この頃竹本氏は牧野氏に属したと思われる。また竹本城は、北側の茂松城に関連した城郭であったようである。永禄五年(1562)からは長沢松平氏臣山田晴政が居城した。
城郭の中央は県道が横切っている。東側は切岸の名残があり、住宅地を挟んで北端には、土塁の一部が残っている。(下写真右) また、地名に市場、馬洗、古(小)城前等が伝わっている。
大洲城の古建築の間に建つ、高度成長時代の構造物。
昭和43年(1968)大洲城二の丸跡地内に建てられた、RC造地上3階(一部4階)建築面積2500㎡の公共施設である。
この異彩な建物は、大洲の「大」の字をデザインした屋根が特徴であり、当時は成長する未来を表したようだが、大洲城の城郭整備を進める中で明らかに浮いた存在になってしまっている。
全国各地、城跡が公有地というところが多く、このような状態に陥り易いが、大洲市の場合、城郭の規模に対し、市民会館の規模、そして外観から、それが際立っている。他所に建造されていればこのような違和感は覚えないのだろうが、高度成長時期の簡素な構造、粗雑な材質、そしてその後のメンテナンスの有無によって老朽化は戦前の建造物よりも足早に進み、より違和感を増すかたちとなっている。
(地蔵ヶ岳城 愛媛県大洲市 櫓:国指定重要文化財・県指定史跡 日本100名城82番 日本の歴史公園100選214番)
肱川を渡り、大洲城へと向かう。
肱川に迫り出すように天保十四年(1843)再建の「苧綿(おわた)櫓」がある。その上方には本丸があり、再現天守、台所櫓、高欄櫓があるが、本丸と苧綿櫓の間、二の丸跡には、それ以上にインパクトがあるというか、非常に違和感のある大洲市民会館が建っている。確認せずとも'60年代を感じさせるデザイン、構造、材質の巨大建物である。
(苧綿櫓)
市民会館の横には下台所土蔵が残り、その向こう側の奥御殿跡の間から、本丸へ上がることができる。
(右:下台所)
平成16年に木造再現された、四層四階の天守と多聞櫓、そしてその両脇には、安政六年(1859)再建の台所櫓と、万延元年(1860)再建の高欄櫓がある。
(高欄櫓内部)
大洲城の前身は元弘元年(1331)宇都宮豊房によって築かれた。豊房以後八代、伊予宇都宮氏は続いたが、永禄十一年(1568)豊綱のとき河野・毛利勢に攻められ滅亡、宇都宮氏家老の大野直之の城となった。直之は、初め河野氏の属したが、後に長曽我部氏、そして天正十三年(1585)秀吉の四国征伐後は小早川隆景に属した。そして天正十五年(1587)には秀吉臣戸田勝隆が十六万石で入城、然し文禄慶長の役の際病没し、子も早世していたため一代限りとなった。文禄四年(1595)からは藤堂高虎の縄張りとなる。
(本丸井戸)
徳川時代に入ると、慶長十四年(1609)淡路洲本より脇坂安治が五万三千五百石で入った。安治の子安元は元和三年(1617)信濃飯田に転封、代わって伯耆米子より加藤貞泰が入城し、以後十三代、廃藩まで加藤氏が続いた。
本丸、二の丸を後にし、三の丸跡に残る明和三年(1766)再建の南隅櫓へ向かう。
加藤氏裔所有という櫓周囲は、大洲高校や民家が建ち並んでいる。
続いて、城下の東方、旧大洲藩庭園であった肱川沿いの高台にに建てられた、臥龍山荘に向かった。
明治40年(1907)地元の貿易商が私財を投じて、和館でありながら、当時の最高技術を用い、構想十年建築四年、述べ九千人の手をかけ、桂離宮、修学院離宮等をモデルにした「臥龍山荘」が建てられた。訪れた際、管理の方から詳しい経緯から建築の逸話、工夫を凝らした内部構造や四季の移り変わり等のご説明を受けた。園内には、本棟の「臥龍院」、浴室を改造して造られた茶室「知止庵」、肱川臥龍淵に迫り出し、「捨て柱」(生木を柱に見立てている)を用いた「不老庵」がある。
(関連記事:伊予大洲 肱川 旧大洲商業銀行)
(名古屋市中村区名駅)
今年も名古屋駅タワーズの壁面やテラス、ガーデンで行われた。
今回のテーマは「ようこそ!温もりとときめきのファンタジーワールドへ」
そして今年も始動し始めた。
格差社会の象徴ともいうべき、名古屋の賑やかさも始まった。
今年一年、この地方は良いも悪いも、注目されるようなドラマチックな年になる予感がした。
(関連記事:light up etc.1 light up etc.7 Skyscraper in Nagoya)