北炭歴史遺産ルート
衰退し多くの人は夕張を後にしたかもしれない。しかし、まだまだ清水沢には住んでいる人たくさんもいる。清水沢地区の現在人口は3,800人余りという。そんな街を歩き続けた…。
旧炭鉱住宅街が一度途切れるところに大きな橋がかかっており、下を夕張川が流れていた。先ほど見た清水沢ダムから放流された流れである。融雪期だからだろうか?思ったより大きな流れである。
その向こうには採炭時に出た石炭以外の土砂などが棄てられたズリ山が徐々に草に覆われつつあり閉山からの時間の経過を感じさせてくれた。
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※ ズリ山はご覧のように草に覆われつつあり、閉山から時間が経ちつつあることを物語っていた。
橋を渡ると俄かに子どもたちの歓声が聞こえてきた。「夕張市立ゆうばり小学校」である。夕張市は平成23年3月、市内にあった6つの小学校を閉校とし、元清水沢小学校だった校舎を「ゆうばり小学校」として開校したということだ。
辺りは比較的新しい旧炭鉱住宅群がそれこそ群れを成すように林立していた。
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そんな住宅群の中で一人の初老の方に出会った。話しかけても良さそうな雰囲気があったので話しかけてみた。彼は最盛期の北炭の時代を知っている人だった。短い時間だったが、街の衰退を嘆き往時を懐かしんでいたのが印象的だった。
コースはやがて「北炭夕張炭鉱坑口跡」に導かれる。その入口のところに四角柱の標識が立っていた。そこには「北炭夕張炭鉱(株)夕張新炭鉱」という文字ともに、「我が新鉱をがつちり守ろう 出稼と保安と生産で」と書かれていた。この中で「出稼」という言葉が冒頭に来る意味が分からなかった。私が理解する出稼ぎとは少し違う意味として使われているのだろうか?
坑口跡は鉄柵が固められ中にはもちろん入ることができないようになっていた。その坑口跡の横には炭鉱事故で無くなった人たちを祀る「殉職者碑」が建てられ120名の方々の名前が刻まれていた。
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※ もう少し近づいて撮影したいと思ったが…。
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歩いて行くコースの脇に小学校のグランドなどで見かけるジャングルジムやブランコが草が繁茂した中に放置されていた。きっと閉校した小学校跡地のグランドだろう。
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※ 草が繁茂する中に遊具が寂しく捨てられていた…。
コースは再び夕張川を渡り、旧炭鉱住宅群の対岸に出る。清水沢駅に至る一本道である。
対岸の道路からは旧住宅群が一望することができる。長い一本道を淡々と歩いていたら、突然前方が通行止めになっていた。橋の架け替え工事中だった。「えっ?これまで来た道を引き返さなくちゃならないの?」と思ったところ、幸いにも脇に人が通れるだけの仮橋ができていて難を逃れることができた。
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仮橋を渡ると清水沢駅前通りに至る。いくつかの店があるものの一帯は閑散としていた。
そんな中、商売に必死なのか、あるいはユーモアがある商店主なのか、店の壁いっぱいに商品の宣伝を手書きで掲げている店があり、衰退する街を象徴する一枚として写させてもらった。
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ウォークを終え、あらためて炭鉱華やかしころと現在との落差を痛感させられるウォークだった。いったい人口減の状況はどれほどのものだろう、と興味を抱きウェブ上で調べてみた。
夕張市の最多人口時は昭和35年の116,908人である。対して現在(平成24年末)はその1/10以下の10,390人である。その中で清水沢地区は昭和35年には13,257人いた人口が現在は3,838人まで減っている。市全体の減少率と比べると、清水沢地区の減少率は小さいといえるが、それでも激しい減少である。
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いろいろと話題に上がる夕張市であるが、炭鉱の灯が消えた今これといった産業のない街はその再生に苦慮していると聞く。往時の夢の再来は望むべくもないが、行政に携わる関係者、地域の人たちの創意工夫を生かし、小さくてもキラリと光るような希望のある街づくりを目ざしてほしいと願いながら街を後にした。
《フットパスウォーク実施日 ’13/06/06 距離9.5㎞》
衰退し多くの人は夕張を後にしたかもしれない。しかし、まだまだ清水沢には住んでいる人たくさんもいる。清水沢地区の現在人口は3,800人余りという。そんな街を歩き続けた…。
旧炭鉱住宅街が一度途切れるところに大きな橋がかかっており、下を夕張川が流れていた。先ほど見た清水沢ダムから放流された流れである。融雪期だからだろうか?思ったより大きな流れである。
その向こうには採炭時に出た石炭以外の土砂などが棄てられたズリ山が徐々に草に覆われつつあり閉山からの時間の経過を感じさせてくれた。
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※ ズリ山はご覧のように草に覆われつつあり、閉山から時間が経ちつつあることを物語っていた。
橋を渡ると俄かに子どもたちの歓声が聞こえてきた。「夕張市立ゆうばり小学校」である。夕張市は平成23年3月、市内にあった6つの小学校を閉校とし、元清水沢小学校だった校舎を「ゆうばり小学校」として開校したということだ。
辺りは比較的新しい旧炭鉱住宅群がそれこそ群れを成すように林立していた。
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そんな住宅群の中で一人の初老の方に出会った。話しかけても良さそうな雰囲気があったので話しかけてみた。彼は最盛期の北炭の時代を知っている人だった。短い時間だったが、街の衰退を嘆き往時を懐かしんでいたのが印象的だった。
コースはやがて「北炭夕張炭鉱坑口跡」に導かれる。その入口のところに四角柱の標識が立っていた。そこには「北炭夕張炭鉱(株)夕張新炭鉱」という文字ともに、「我が新鉱をがつちり守ろう 出稼と保安と生産で」と書かれていた。この中で「出稼」という言葉が冒頭に来る意味が分からなかった。私が理解する出稼ぎとは少し違う意味として使われているのだろうか?
坑口跡は鉄柵が固められ中にはもちろん入ることができないようになっていた。その坑口跡の横には炭鉱事故で無くなった人たちを祀る「殉職者碑」が建てられ120名の方々の名前が刻まれていた。
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※ もう少し近づいて撮影したいと思ったが…。
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歩いて行くコースの脇に小学校のグランドなどで見かけるジャングルジムやブランコが草が繁茂した中に放置されていた。きっと閉校した小学校跡地のグランドだろう。
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※ 草が繁茂する中に遊具が寂しく捨てられていた…。
コースは再び夕張川を渡り、旧炭鉱住宅群の対岸に出る。清水沢駅に至る一本道である。
対岸の道路からは旧住宅群が一望することができる。長い一本道を淡々と歩いていたら、突然前方が通行止めになっていた。橋の架け替え工事中だった。「えっ?これまで来た道を引き返さなくちゃならないの?」と思ったところ、幸いにも脇に人が通れるだけの仮橋ができていて難を逃れることができた。
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仮橋を渡ると清水沢駅前通りに至る。いくつかの店があるものの一帯は閑散としていた。
そんな中、商売に必死なのか、あるいはユーモアがある商店主なのか、店の壁いっぱいに商品の宣伝を手書きで掲げている店があり、衰退する街を象徴する一枚として写させてもらった。
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ウォークを終え、あらためて炭鉱華やかしころと現在との落差を痛感させられるウォークだった。いったい人口減の状況はどれほどのものだろう、と興味を抱きウェブ上で調べてみた。
夕張市の最多人口時は昭和35年の116,908人である。対して現在(平成24年末)はその1/10以下の10,390人である。その中で清水沢地区は昭和35年には13,257人いた人口が現在は3,838人まで減っている。市全体の減少率と比べると、清水沢地区の減少率は小さいといえるが、それでも激しい減少である。
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いろいろと話題に上がる夕張市であるが、炭鉱の灯が消えた今これといった産業のない街はその再生に苦慮していると聞く。往時の夢の再来は望むべくもないが、行政に携わる関係者、地域の人たちの創意工夫を生かし、小さくてもキラリと光るような希望のある街づくりを目ざしてほしいと願いながら街を後にした。
《フットパスウォーク実施日 ’13/06/06 距離9.5㎞》