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亞港と尼港の旅人たち 前編

2014-06-07 23:33:30 | 大学公開講座
 なんとも詩的なタイトル名である。江戸末期から明治にかけて、極東ロシアにあった二つの港をめぐって日本人がさまざまな形で関わった話を聴いた。 

 北大公開講座「記憶の中のユーラシア」第6講は、5月30日(金)夜、「亞港と尼港の旅人たち:ロシアと日本のはざまの中の記憶」と題して、北大スラブ・ユーラシア研究センター研究員の井潤裕氏が務められた。

 まず、それぞれの港の正式名であるが、「亞港」とは北部サハリン(樺太)の港アレキサンドロフスク・サハリンスキー港のことを、「尼港」とはアムール川河口にあるニコラエスク港のことを、をそれぞれ略して日本流に呼んだ名である。

 講師の井潤は短い時間の中で「亞港」と「尼港」で起こった事件、往来した人を少しでも多く紹介しようと努めたためか、聞いている私たちからすると、話の内容を消化するのがなかなか困難だった。そこで私なりに概略整理することを試みてみたい。

 間宮林蔵が1809年、カラフト探検をして「間宮海峡」を発見したことはよく知られているが、そのことを後に「東韃地方紀行」、「北夷分界餘話」に著しているが、そこには「亞港」も「尼港」の話は出てこない。つまり1809年の時点で古文書の上では二つの港とも歴史上はっきりした形では現れていないということになる。

 歴史上に「尼港」が現れるのは、ロシアが積極的な極東進出を推進し始めた1850年、アアムール川河口に「ニコラエフ哨所」を建設したのが始まりのようである。
 ロシアは同時にサハリンの調査にも着手し、1859年にはサハリン全島の領有も主張し始めた。(この問題は日本との交渉となり、1875年樺太千島交換条約によってサハリン全島はロシア領として決着する)

          

 「尼港」にはその後、多くの日本人が訪れているが、詳細を記述すると膨大なものとなり私の手には余るので氏名のみ記述に留めることにする。
 武田斐三郎(1861年)、黒田清隆(1886年)、島田元太郎(1896年)などが訪れていることが古文書などから明らかになっている。
 特徴的なこととしてロシア人作家・チェーホフが1980年に「尼港」、「亞港」を訪れている。彼は文学者らしい表現で二つの港町をレポートしている。

 
 一方、「亞港」であるが、先に記した武田斐三郎が1861年に訪れ「黒龍江誌」に記したのが最も古い古文書のようである。そこでは「亞港」のことを「歴山港」と称し、次のように記している。「歴山港は満州北部の一大港なり…」と。

          
          ※ 「亞港」に設置された桟橋の様子だそうである。

 その後、1905年、日露戦争によってサハリン南部は日本に割譲されたあたりから「亞港」、「尼港」の運命は俄かに激動に時期を迎えるのだが、そのことについては明日また引き続きレポートすることにする。