田舎おじさん 札幌を見る!観る!視る!

私の札幌生活も17年目を迎えました。これまでのスタイルを維持しつつ原点回帰も試み、さらなるバージョンアップを目ざします。

私は何を得ることができたのだろうか?

2014-06-11 15:41:22 | 大学公開講座
 数多くの講演や講座を受講していると、時には「あっ、選択を間違えてしまった」と後になって臍を噛むようなケースも出てくる。この度受講した北大の公開講座は私にとってはそうしたケースの一つだった…。 

                    
          ※ ウェブ上から拝借したポスターだが、ボカしているのは意図的な措置かもしれません。

 5月14日から6月4日にかけて全4回にわたって「近代とその行方 ~ アートとアメリカとリスク~」という講座を受講した。
 各回の具体的なテーマは次のようなものだった。
  ◇第1回(5/14) 「近代化から派生した問題とポスト・モダンの世界」
  ◇第2回(5/21) 「戦争・国家・近代のイメージ ゴヤ『戦争の惨禍』を中心に」
  ◇第3回(5/28) 「現代アメリカの政治が抱える諸問題」
  ◇第4回(6/04) 「福島原発の所長は、なぜブチ切れたのか」

 私がこの講座を受講した理由は、「講座全体のイメージが掴めないなぁ。各回のテーマが全体としてどのように結びついてくるのか」という謎解き的な面白さを感じて受講しようと思ったのだ。

 結論から言うと、私の謎は謎として最後まで解けることはなかった。
 「それは、お前の資質的な問題だよ」と言ってしまえば、それまでなのだが…。
 テーマから読み取れることは「近代はこのような事象が世界で起こっています。そしてその事象の行方はこのような道を辿るのではと予想されます」的なことが提起されるのではとの期待があったが、私の中では消化不良のままだったと言える。
 私の中では、4つのテーマが一つの像として結びつかないまま講座が終了したという思いだけが残った。もちろん一つ一つの講座には興味ある内容もたくさん含まれてはいたのだが…。

 私のような思いをしたのが私だけだったら良いのだが、はたしてどうだったのだろうか?

 ある回の講師が「講座の内容をブログ等で公表することを慎んでもらいたい」的な要請があったが、私には納得できない要請である。
 講演を聴く、講座を受講する、映画を観る、本を読む、などなどその際の感想をブログ等で公表している例はごまんとある現状である。そもそも講師の方々は自らの研究成果をウェブ上で発表しているではないか。
 もちろん趣旨を違えて受け取り、感想を述べている例も多々あるとは思われるが、それとて公表した側の責任であって、講師には何の責任もない問題である。数多くの講座を受講していて初めての経験である。
 狭量な講師に出会った思いがした。