チェーホフが亞港と尼港を訪れたころは両港ともまだ牧歌的な雰囲気が漂っていたが、20世紀に入ってからは日ロの領土的野心の中で翻弄されていくこととなった…。
日露戦争が終結した直後の1905年、地理学者の〔志賀重昴〕は樺太を視察した。その際のことを「北行日記」に記しているが、その中で「亞港」がある歴山市のことを「此山、此水、此の寺塔、此の官庁、今や挙げて我が掌中に入りたり…」と「亞港」が日本領になったことを喜んでいる。しかし、直後に締結された日露和親条約によって北樺太はロシア領となったことが分かり、志賀は「慨然北天を睥睨するも久し」と嘆いている。
※ 「亞港」と「尼港」の関係図です。「亞港」はアレキサンドロフスクの港です。
ところが1917年ロシア国内では帝政打倒の「ロシア革命」が勃発し、内戦状態に陥った。そこへ米・英・仏などと共に日本は1918年ウラジオストックに派兵、後には10個師団72,000名にまで兵力を拡大することとなった。
それと前後するように法制局参事官だった〔入江貫一〕が1917年、北樺太(ロシア領)を視察している。つまり「亞港」も含め、北樺太はロシア領ではあったが日本人がかなり自由に往来していたようだ。入江が行った頃には、〔高村権次郎〕をはじめとする日本人商人が亞港においてかなり手広く商売をしていたと入江の「露領樺太覗記」には記されている。
一方、「尼港」の方は1918年、ウラジオに派兵した日本軍はその余勢をかって「尼港」をも占領してしまうのである。ところがこれが「尼港事件」という悲劇を産むことになる。1920年、ロシア・パルチザンによって「尼港」に駐留または居住していた日本側の軍民合せて700人以上が全滅するという惨劇となった。
この「尼港事件」が起こったことを理由に日本軍は「尼港」を1922年まで、「亞港」を1925年まで軍事占領を続けたのである。
この「尼港事件」と前後して、小樽新聞の〔市川輿一郎〕、ジャーナリストの〔河合裸石〕、ロシア語学者の〔八杉貞利〕、山形新聞の〔高島米吉〕などが「亞港」や「尼港」を訪れている。
そこで見聞した彼らの記録によると、「亞港」も「尼港」も治安が乱れ、統制もほとんど効いていないような状態だったようだ。
1920年、「亞港」を訪れた河合は風紀の乱れを詳述している。
また、山形新聞の高島は1922年、日本軍従軍記者として「尼港」に派遣されるが、その「尼港」から日本軍が撤兵する直前の状況を「シベリア出兵従軍記」に著している。
こうして19世紀末から20世紀初頭にかけては、未開であった極東の「亞港」や「尼港」は日本人のみならず、当地は露人、朝鮮人、支那人、ギリヤーク人、ツングース人など一攫千金を夢見る人たちの人種の坩堝だったらしい。それだけに治安の乱れも想像以上だったのかもしれない。
いずれにしても当時「亞港」や「尼港」を訪れる旅人たちにとっては、相当の覚悟とある種の冒険心を抱いた者だけが訪れることができる未開の地だったことだけは講師の井澗氏の話から十分に想像することができた。
日露戦争が終結した直後の1905年、地理学者の〔志賀重昴〕は樺太を視察した。その際のことを「北行日記」に記しているが、その中で「亞港」がある歴山市のことを「此山、此水、此の寺塔、此の官庁、今や挙げて我が掌中に入りたり…」と「亞港」が日本領になったことを喜んでいる。しかし、直後に締結された日露和親条約によって北樺太はロシア領となったことが分かり、志賀は「慨然北天を睥睨するも久し」と嘆いている。
※ 「亞港」と「尼港」の関係図です。「亞港」はアレキサンドロフスクの港です。
ところが1917年ロシア国内では帝政打倒の「ロシア革命」が勃発し、内戦状態に陥った。そこへ米・英・仏などと共に日本は1918年ウラジオストックに派兵、後には10個師団72,000名にまで兵力を拡大することとなった。
それと前後するように法制局参事官だった〔入江貫一〕が1917年、北樺太(ロシア領)を視察している。つまり「亞港」も含め、北樺太はロシア領ではあったが日本人がかなり自由に往来していたようだ。入江が行った頃には、〔高村権次郎〕をはじめとする日本人商人が亞港においてかなり手広く商売をしていたと入江の「露領樺太覗記」には記されている。
一方、「尼港」の方は1918年、ウラジオに派兵した日本軍はその余勢をかって「尼港」をも占領してしまうのである。ところがこれが「尼港事件」という悲劇を産むことになる。1920年、ロシア・パルチザンによって「尼港」に駐留または居住していた日本側の軍民合せて700人以上が全滅するという惨劇となった。
この「尼港事件」が起こったことを理由に日本軍は「尼港」を1922年まで、「亞港」を1925年まで軍事占領を続けたのである。
この「尼港事件」と前後して、小樽新聞の〔市川輿一郎〕、ジャーナリストの〔河合裸石〕、ロシア語学者の〔八杉貞利〕、山形新聞の〔高島米吉〕などが「亞港」や「尼港」を訪れている。
そこで見聞した彼らの記録によると、「亞港」も「尼港」も治安が乱れ、統制もほとんど効いていないような状態だったようだ。
1920年、「亞港」を訪れた河合は風紀の乱れを詳述している。
また、山形新聞の高島は1922年、日本軍従軍記者として「尼港」に派遣されるが、その「尼港」から日本軍が撤兵する直前の状況を「シベリア出兵従軍記」に著している。
こうして19世紀末から20世紀初頭にかけては、未開であった極東の「亞港」や「尼港」は日本人のみならず、当地は露人、朝鮮人、支那人、ギリヤーク人、ツングース人など一攫千金を夢見る人たちの人種の坩堝だったらしい。それだけに治安の乱れも想像以上だったのかもしれない。
いずれにしても当時「亞港」や「尼港」を訪れる旅人たちにとっては、相当の覚悟とある種の冒険心を抱いた者だけが訪れることができる未開の地だったことだけは講師の井澗氏の話から十分に想像することができた。