(その1)
昨日のことです。
写真の竹の飾りは、対岸のツララを撮ったところの倒木のところに転がっていました。
写真を撮るために、立てかけたものです。
太い竹、孟宗竹でしょうか、それをうまく使って取っ手のついた竹の容器にして、その中に細い竹を3本使った門松と南天が入っていました。
この飾りは、流れてきたもののようではありません。
いわば正月飾りを川辺に飾るということも聞いたことがないし。
旧正月の飾りというものでもないだろうし。
対で飾るものなのでしょうか。
とってもよく出来ています。取っ手のところなんか決まっています。
私も竹細工は好きで、いろいろ加工したり、削ったりしていますが、この竹飾りは本当に良く出来ています。感心しました。
そうか、先週はなかったのではないでしょうか。
先週もこのところに来たと思います。あれば目についたでしょう。
ここ1週間の間に誰かが作って飾ったものを川に捨てたのでしょうか。
(その2)
一昨日のことですが、家の道路を挟んで向かいの家の主人が亡くなりました。82歳でした。
昨日お通夜が、郊外の葬儀社であり、夫婦で行って来ました。
和尚さんは曹洞宗の和尚さんということでしたが、6時からの予定が渋滞のためとかで到着が遅れ、通夜の開始も20分遅れました。
通夜が遅れるというのも珍しいことと思いますが、それ以上になんだこれは!と面白かったというと不謹慎かもしれませんが、こんなこともあるのかなと驚き、あきれたことがありました。
和尚さんは二人来ました。親子のような感じでした。
故人に相対して父親?の方が座り、息子?は左手前方に横を向いて座りました。木魚等を前にして。
しかし、読経がいまいち合っていません。ところどころ不協和音となります。
普通複数の和尚さんの読経は見事にハモッていて、すごいものだと感心させられるものではないですか。
通夜に参列した人すべてに、「修証義」という曹洞宗のお経の本が配られ、数ページに亘り全員で読み上げましたが、和尚さん親子?の読経は長かったせいもあるのかも知れませんが、微妙にずれたりしていました。
まあ、それくらいなら愛嬌として聞き流してもいいのですが、親族と参会者の焼香が終了して最後の読経に移ったときのことです。
二人の息が合わなくて、息子?の方が慌てて手持ちの冊子の該当する所を開くことができませんでした。
まだまだ経験不足のようなのは最初からなんとなく感じていましたが、父親?のほうが息子?に関係なく、読経を始めてしまい、慌てた息子は父親の方を見て、「待ってくれ、最初からやり直してくれ」と言っているようでした。
でも、留まることなく読経は進んでいきます。息子は何とか追いつこう、間違えないように木魚等を叩こうと努力していましたが、まだ若いというのか、不平タラタラという感じで、何度も何度も父親の方を恨めしげに見ているのです。ふくれっ面をしていたといってもいいかも。可愛いといえなくもないです。まだまだ修行が足りないということははっきりいえます。
そういうことが昨日の通夜の時にありました。我々は一般参会者の一番前にいたので分かりました。
合掌