『哲学者とオオカミ―愛・死・幸福についてのレッスン』
マーク・ローランズ、2010、『哲学者とオオカミ―愛・死・幸福についてのレッスン』、白水社
本書は、オオカミと暮らした哲学者による人間存在についての省察である。
著者のマークは、子供の頃から、大型犬と共にそだった。大学を出てアラバマの大学で職を得た時、混血オオカミを譲るという新聞記事を見て、矢も盾もたまらずオオカミの子供を引き取りブレニンと名付ける。このブレニンとの10年ほどの一生と付き合うことになったマークのオオカミの行動に触発された人間に関する省察が本書である。
ブレニンと暮らした期間は、かれの哲学者としての重要な期間であったようだ。アラバマで暮らした何年かはまさにアウトプットをせずに経験を蓄積した時代だったようだが、その後、ブレニンとともに、アイルランド、イギリス、フランスで暮らし哲学の執筆にふける。
哲学者マークは、サルの一員としてのヒトとしての自己とオオカミのブレニンをの行動を重ねあわせながら、ついには、みずからベジタリアンとなり、ブレニンにも「ペスキタリアン」を強いる。ペスキタリアンとは動物の肉を忌避するが魚介類や卵、乳製品を許容するベジタリアンである。なぜか、それは、人間と何かの哲学的な考察の中で、人間存在を所与のものとする前提を否定して、動物に食物としての人間としての立ち位置を要求する人間存在のあり方を否定しなければ、人間の多様性をも許容できないと考えたからである。かれは「Animal Rights」の書とローティ批判の書をものにする。しかし、彼のベジタリアンとしての立場は理想的にはヴィーガンであろうとしたのだが、固執したものではない。ブレニンが最後を迎えた頃に居住したフランスでは、この決まり事をマークもブレニンも破っていた。
ここにも、じつは矛盾が存在する。なにも、動物だけではなく、植物の生命を奪うヴィーガンもまた同じ穴の狢である。人間存在はかように罪深い存在であることは、ここでは、突っ込む必要もないだろう。
本書は、こみ上げてくる気持ちを抑えながら読むことのできない久しぶりの感動的な本だったことを告白しておきたい。恐らく、イヌ好きの読者だけではなく、すくなくとも、人間存在の虚しさや薄っぺらさにときどきげんなりする読者に、特におすすめしておこうか。
本書は、オオカミと暮らした哲学者による人間存在についての省察である。
著者のマークは、子供の頃から、大型犬と共にそだった。大学を出てアラバマの大学で職を得た時、混血オオカミを譲るという新聞記事を見て、矢も盾もたまらずオオカミの子供を引き取りブレニンと名付ける。このブレニンとの10年ほどの一生と付き合うことになったマークのオオカミの行動に触発された人間に関する省察が本書である。
ブレニンと暮らした期間は、かれの哲学者としての重要な期間であったようだ。アラバマで暮らした何年かはまさにアウトプットをせずに経験を蓄積した時代だったようだが、その後、ブレニンとともに、アイルランド、イギリス、フランスで暮らし哲学の執筆にふける。
哲学者マークは、サルの一員としてのヒトとしての自己とオオカミのブレニンをの行動を重ねあわせながら、ついには、みずからベジタリアンとなり、ブレニンにも「ペスキタリアン」を強いる。ペスキタリアンとは動物の肉を忌避するが魚介類や卵、乳製品を許容するベジタリアンである。なぜか、それは、人間と何かの哲学的な考察の中で、人間存在を所与のものとする前提を否定して、動物に食物としての人間としての立ち位置を要求する人間存在のあり方を否定しなければ、人間の多様性をも許容できないと考えたからである。かれは「Animal Rights」の書とローティ批判の書をものにする。しかし、彼のベジタリアンとしての立場は理想的にはヴィーガンであろうとしたのだが、固執したものではない。ブレニンが最後を迎えた頃に居住したフランスでは、この決まり事をマークもブレニンも破っていた。
ここにも、じつは矛盾が存在する。なにも、動物だけではなく、植物の生命を奪うヴィーガンもまた同じ穴の狢である。人間存在はかように罪深い存在であることは、ここでは、突っ込む必要もないだろう。
本書は、こみ上げてくる気持ちを抑えながら読むことのできない久しぶりの感動的な本だったことを告白しておきたい。恐らく、イヌ好きの読者だけではなく、すくなくとも、人間存在の虚しさや薄っぺらさにときどきげんなりする読者に、特におすすめしておこうか。
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