『犬たちの明治維新 ポチの誕生』
仁科邦男、2014、『犬たちの明治維新 ポチの誕生』、草思社
同じ著者の『犬の伊勢参り』について以前書いたことがあるが、本書もまた前書に並びとてもおもしろかった。
『犬の伊勢参り』(平凡社新書)
明治維新で変わったこと、それは人間だけではなかった。前作でも書かれていたが、日本の犬の多くは、猟犬以外は里犬(町犬、村犬)で、かれらには所有者はいなくて最近ならば地域犬というべき存在だった。名前はないか、その毛色で呼ばれることが多かった。シロとかクロとか、ブチであった。そうした地域犬の社会に個人の所有物である洋犬がやってくる。横浜の人々は、西洋人が犬を「come here」と呼ぶのを「カメや」ときいて、洋犬のことをカメと呼んだ。洋犬を飼うことが流行り始めた。また、混血化も進んだ。明治政府は他の欧化政策とならんで、野犬の駆逐事業を行い、犬は家で飼うように、さもなければ、駆除することとなった。
本書では明治天皇の犬や西郷隆盛の犬について多くのページが割かれるが、白眉は本書の副題でもある「ポチ」の由来についてである。なぜ、犬の名はポチなのか。著者の説は、横浜の居留地で生まれたピジンであるという。たとえば、駄目の意味で「ペケ」という言葉が今も使われて今使っているGoogle日本語入力でも「peke(ぺけ)」と入力すると「☓」に変換される。日本語として定着しているが、この語もまた、横浜ピジンの一つであるという。この語はもともとは、マレー語の「ピギー」という「持ち去る」こと、「立ち去る」語に関する中国系マレー人の言葉とと英語のピジンだそうだ。また、日本語化している「チャンポン」もまた、まぜこぜの意の中国語「チャン・ホー」から来ているという。洋犬の「カメ」が「come here」から来ているのもこれである。
では、「ポチ」とはなにか。著者によると日本人が斑犬をさして「ブチ」とよび(これは、日本語の犬の名が毛色から来ていることに従っている)、これを、西洋人が「patch」(毛色に斑が入ることを指していて、たとえばダルメシアン犬のディズニー映画の主人公の子犬がこの「パッチ」であるという)と聞き、西洋人が斑犬を「パッチ」とよぶようになって、日本人がこれを「come here」=「カメや」と同様に「ポチ」と聴いたからではないかという。ふむふむ、それらしい。
そして、日本犬にとって決定的な変化は太平洋戦争のための犬の供出であったという。これによって在来日本犬は秋田犬や柴犬などの一部の猟犬を除き根絶やしにされたという。金属類の供出は銃砲や弾薬になり、犬の毛皮は兵隊たちの冬の帽子や襟巻きになったのだという。
そういば、子供の時分には野犬狩りがあったにも関わらず町の中にも野良犬がたくさんいた。野良犬の子や野良猫の子を拾っては家に連れて帰っては両親にいいかげんにしなさいと言われながら、何頭も犬や猫を飼っていた。はじめは、世話をするという約束だったがすぐに忘れ去られ、犬の散歩は父の役目となった。猫の時は、ある時、何が原因であったかは記憶にないが、家に上げてはいけないと宣告され、猫が出入りしていた床下の空間も、出入りの大工さんによって塞がれてしまった。やむなく、わが家猫は、かくして庭猫になった。さすがに高校大学の頃は犬猫をひろわなくなったが、あとを継いだのは妹だった。最後に妹が拾ってきた犬が死んだのは、わたしが大学をでて、7−8年もたった頃だった。それとてもう35年ほど前のことだ。
それにしても、最近はまったく野良犬を見かけないし、また、飼い主が散歩させる犬たちは私が子供の頃に飼っていた犬とは似ても似つかぬ、おそらくは、ペットショップでご購入のものであるに違いない。子どもたちも街角で犬猫をひろっては両親を困らせることなく、きっと、ペットショップの前で買って買ってと駄々をこねているに違いない。
同じ著者の『犬の伊勢参り』について以前書いたことがあるが、本書もまた前書に並びとてもおもしろかった。
『犬の伊勢参り』(平凡社新書)
明治維新で変わったこと、それは人間だけではなかった。前作でも書かれていたが、日本の犬の多くは、猟犬以外は里犬(町犬、村犬)で、かれらには所有者はいなくて最近ならば地域犬というべき存在だった。名前はないか、その毛色で呼ばれることが多かった。シロとかクロとか、ブチであった。そうした地域犬の社会に個人の所有物である洋犬がやってくる。横浜の人々は、西洋人が犬を「come here」と呼ぶのを「カメや」ときいて、洋犬のことをカメと呼んだ。洋犬を飼うことが流行り始めた。また、混血化も進んだ。明治政府は他の欧化政策とならんで、野犬の駆逐事業を行い、犬は家で飼うように、さもなければ、駆除することとなった。
本書では明治天皇の犬や西郷隆盛の犬について多くのページが割かれるが、白眉は本書の副題でもある「ポチ」の由来についてである。なぜ、犬の名はポチなのか。著者の説は、横浜の居留地で生まれたピジンであるという。たとえば、駄目の意味で「ペケ」という言葉が今も使われて今使っているGoogle日本語入力でも「peke(ぺけ)」と入力すると「☓」に変換される。日本語として定着しているが、この語もまた、横浜ピジンの一つであるという。この語はもともとは、マレー語の「ピギー」という「持ち去る」こと、「立ち去る」語に関する中国系マレー人の言葉とと英語のピジンだそうだ。また、日本語化している「チャンポン」もまた、まぜこぜの意の中国語「チャン・ホー」から来ているという。洋犬の「カメ」が「come here」から来ているのもこれである。
では、「ポチ」とはなにか。著者によると日本人が斑犬をさして「ブチ」とよび(これは、日本語の犬の名が毛色から来ていることに従っている)、これを、西洋人が「patch」(毛色に斑が入ることを指していて、たとえばダルメシアン犬のディズニー映画の主人公の子犬がこの「パッチ」であるという)と聞き、西洋人が斑犬を「パッチ」とよぶようになって、日本人がこれを「come here」=「カメや」と同様に「ポチ」と聴いたからではないかという。ふむふむ、それらしい。
そして、日本犬にとって決定的な変化は太平洋戦争のための犬の供出であったという。これによって在来日本犬は秋田犬や柴犬などの一部の猟犬を除き根絶やしにされたという。金属類の供出は銃砲や弾薬になり、犬の毛皮は兵隊たちの冬の帽子や襟巻きになったのだという。
そういば、子供の時分には野犬狩りがあったにも関わらず町の中にも野良犬がたくさんいた。野良犬の子や野良猫の子を拾っては家に連れて帰っては両親にいいかげんにしなさいと言われながら、何頭も犬や猫を飼っていた。はじめは、世話をするという約束だったがすぐに忘れ去られ、犬の散歩は父の役目となった。猫の時は、ある時、何が原因であったかは記憶にないが、家に上げてはいけないと宣告され、猫が出入りしていた床下の空間も、出入りの大工さんによって塞がれてしまった。やむなく、わが家猫は、かくして庭猫になった。さすがに高校大学の頃は犬猫をひろわなくなったが、あとを継いだのは妹だった。最後に妹が拾ってきた犬が死んだのは、わたしが大学をでて、7−8年もたった頃だった。それとてもう35年ほど前のことだ。
それにしても、最近はまったく野良犬を見かけないし、また、飼い主が散歩させる犬たちは私が子供の頃に飼っていた犬とは似ても似つかぬ、おそらくは、ペットショップでご購入のものであるに違いない。子どもたちも街角で犬猫をひろっては両親を困らせることなく、きっと、ペットショップの前で買って買ってと駄々をこねているに違いない。
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