読了したのは2月の初めだったと思うが、なかなか書けないでいた。しかし、昨日、著者のひとりの磯野さんと話をする機会がたまたまあり、ちょっと感想めいたことも話したので書けそうな気がしてきた。ひょっとして、以下に書く文の中に、その時の磯野さんのコメントが混じっているかもしれない。もしそうだったらごめんなさい。
本書は、もうひとりの著者の宮野さんとの往復書簡(メールのやりとり?)の体裁をとっていて、最後は、タイトルのように宮野さんが急に具合が悪くなり亡くなってしまうというドラマティックな結末となった。その事もあって、感想めいたことを書くことがはばかられた。また、どんなことを書いたものかわからなかったから、今まで1ヶ月ほどもそのままにしたのであった。どのあたりだったか、本書の前半の方で宮野さんの言葉の中に死の予感とでもいったようなものがあった気がする。そのために、結構速いスピードで読み進んだのだった。そのときに感じたように、宮野さんの死が結末に待っているという驚き(しかし、十分予想しながら読んだ)が待ち構えていた。
人類学を学ぶものとすれば、近現代の西洋医学中心の死と老いと病いを極力回避し、生と若さと健やかさを良きものとするそうした死生観について、果たしてそれだけかとおもえてしまう。回復することがのぞましく、生還することが勝利であったというようなそうした死生観だけでいいのだろうか。
実は世界にはさまざな死生観がある。たとえば、比較的身近なところでは、仏教的な輪廻や西方浄土といった死生観をあげることができるだろう。また、補陀落渡海のような生きながら経を読みつつ食料もなく、海に乗り出していった上人、それを信仰する人々、あるいは、絶食を伴う修行を行う仏陀をはじめ行者たちを思い浮かべても良い。即身成仏も知られていて、ミイラとして現在も見ることができる。補陀落渡海は即身成仏のバリエーションとされる。彼らは、生と死を架橋し、生きながらも死に極力近づくこと、それが、修行であった。たとえ、そのまま死を迎えてもそれは涅槃の境地に到達したのであり、極楽成就は必定ということになる。キリスト教世界においても、修道士は独身をたもち、俗世を離れた異郷で修業をする伝統があった(現在もある)。独身を保ち、次世代を持つことを回避するということは、まさに自己において生の断絶させること、とも言えるのではないか。もちろん、本来独身者であるはずのローマ教会の司教たちが隠れて子供を持ち、教会の外で生まれた実子を法王の地位につけたようなこともあったようではあるが、しかし、このことも、人々は小声でささやくうわさにすぎず、表立って結婚をしたり、子供であることを宣言することははばかられたのだ。
私が経験したフィールドワークでは、ミクロネシアでは死後世界は海底にあって、死者は腰布にくるまれて海に押し出され葬られた。現在はキリスト教に改宗したので地面に埋葬されることになったが、彼らの古くからのイメージでは海に押し出すということは、死の世界に死者を送り出すことであった。太陽は朝生まれ、夕に死に、海底世界(死の世界でもある)を旅して、朝再び蘇るのである。夜の星座は航海のための重要なインデックスとなるのだが、古くからの航海者たちは航海するのは日中であって日中にあっても海面に没する星座の位置を記憶し、記憶の中の海図として星のない日中も航海することができたのだ。星たちは日中に海底世界を旅することになる。
また、オーストラリアではたまたま、アボリジニの街でブラックマジックがかけられたという現場に出くわした。正確には木の股に針と糸がささっているのが発見され、それがブラックマジックの道具であって、誰が誰にブラックマジックをかけたのかという大論争がおこっり、人々が大声で議論をしている現場に出くわしたということだが。こうした現場にいき合わせたため、人々にインタビューし、過去の文献を読んでみた。すると、ブラックマジックがかけられたと自覚した人々は極力水を飲まず、いわば、脱水症のような状況になって衰弱死することが望ましいと考えられていたようだ。人の命は「生命の泉」(それは、現実のどこかの泉であったり、ある種バーチャルな泉の場合もあるようだ)のそばを通りかかった女の胎内に「命の種」が入り込み、パートナーとセックスをすることによりその「命の種」は胎児となり、この世に生を受ける。だから死は、「生命の泉」に帰るということを意味していて、ブラックマジックを自覚した人々は早く死んでこの世に再生することをねがって水を忌避するのであると。
文化人類学者の原ひろ子は森林インディアンのヘア族の事例を紹介している。その文の中で、近代的な病院に担ぎ込まれたヘアの患者にも触れていて、もっともあっけなく死んでしまうのがヘアで、白人はなかなか死なないと。ヘアたちは、子供の時から、自分の守り神を見つけようと森の中にひとりで入り、朦朧とした意識の中で守り神とであうという。それは、生と死とのあわいの中でみいだすことができるのだとという。
近代西洋医学の世界で生きる我々は、もはや死後の世界というイメージを喪失し、生をひたすら生き続けることを余儀なくされる。日本では人々のイメージの中で死後の世界はおぼろの中に消え失せ、同時に入るべき墓や仏壇もまたその存在意義を失うということなのではないか。墓や仏壇は少子化の中で現実的にその存在が問われるその背後に、我々にとっての死後世界の喪失も隠されているとも言えるだろう。
本書の読後感想としては、飛躍があるようにも思えるが、しかし、宮野さんの魂はおそらく本書が書かれたことによって大勢の人々とともにあり続けることになったのではないかと思える。もちろん、死後、個人名と結びついた魂もまた加齢を重ね、やがては祖霊となってあわいと消えるはずなのだが。