阿弥陀寺でのご祈願が終わると、江戸時代に百姓一揆のために命をささげた方の墓所に向かいました。なお、命をささげた方を丁重に葬ったのは阿弥陀寺だけだったそうです。その他のお寺は権力に屈したのでしょう。この墓所近くに阿弥陀寺の元になった阿弥陀堂跡がありました。阿弥陀堂は江戸時代から明治期かけて防陽八十八ヶ所霊場の四番ヶ札所でした。当時はたくさんの巡礼者が訪れたことでしょう。阿弥陀堂は5年前にはまだ建物がありました。続いて、昭和14年に寺に昇格した時の本堂跡地に行きました。
阿弥陀寺の山門前にて、ご住職にシャッターを押していただく
阿弥陀寺の本堂跡地の山裾に巨大なシイの大木が立っています。幹の太さから樹齢は100年は経っていると思われます。しかしながら、シイの木は神社や祠近くに立っていることが多いのです。お寺境内にシイの木があることは少ないと思います。もしやと思って、シイの大木の裏側に回ってみました。すると、やはり幹の下に小さな祠がありました。この祠と関係があるのかも知れません。
百姓一揆犠牲者の墓所 シイの巨木下の祠 本堂跡地から降りる
阿弥陀寺本堂跡地の墓地には梵字が書かれた不思議な形の墓地がありました。この不思議な墓地を調査するために来た方がいたそうです。阿弥陀寺の墓所などがある山の中腹から降りると、苗代池とお地蔵様に向かいました。
苗代池畔を歩く 苗代池のお地蔵様
このお地蔵様は、苗代池を守るために安置されたのではないかと思います。お地蔵様の下に「火難水難」と刻まれていました。苗代池はため池として日照り時の稲作に役に立ったと思います。しかし今は住宅に囲まれているため、ため池としての役割は終わっているのではないとか思います。
柳井市古開作方面の史跡巡りウォーキングのコース
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