今月の初め、花芽を出していた福寿草が咲き始めました。毎年この花が咲くと春が遠くないことを知ります。この福寿草、もともとは東京奥多摩の檜原村に住む古老の家のそばで群生していました。15年位前その福寿草の一部を古老にいただいて、八王子の我家の庭に移植しました。そして去年の冬、山口県の我家に一部を移植しました。山口県では、この花を見たことがありません。6年前にも移植しましたが活着しませんでした。暖かい地方ではうまく育たないのかもしれません。又は、山間地域でないと育たないのかも知れません。
春が近い!元気に花を咲かせている福寿草
福寿草が育つのは冬に日がさして、夏は日陰になる場所です。つまり、落葉樹の傍です。今回、花が咲いた福寿草は梅の傍に移植したものです。もう一か所花が咲いたのは、スモモの木の下に移植したものです。
咲いた花を観察すると、花柄が関東と比べて小さいことです。また、育ち方で異なるのは花が咲きつつすでに葉が出ている株があることです。関東では、花が散った後に葉が出てきます。やはり、山口県では福寿草が育つ環境が関東や東北と微妙に違うようです。今後、葉がたくさん出ますので、肥料をやるなどしてなんとかこの山口県で増やしてみようと思います。
パラボラアンテナのような花柄 他の株は花が出ず、もう葉が出る
届いた苗のうち、ポポーとグミを最後に植えました。ポポーは不思議な果物です。バナナを少し太らせたような果物で、とろりとした濃厚な甘さが特長です。子供の頃、誰かからもらってきたポポーを食べたことがあります。当時はお菓子がそれほどたくさん売っていませんから、ポポーを食べた時に感激した記憶があります。このポポーは果物屋さんで売っていません。個人的に懐かしくて栽培してみたくなったのです。
日当たりの良い場所に植樹 植えたポポーの苗木、育ってね!
この果物ポポーの欠点は2つあります。1つは種がとても大きいことです。ツバキの種ほどの大きさのものが何個か入っています。種を選り分けながら食べなければなりません。ザクロのような食べ方です。もう一つは日持ちがとても悪いことです。すぐに食べないと腐ってしまいます。このため、いまだに果物屋さんで見たことがありません。品種改良途上の果物ではないかと思います。
グミの苗を家のそばに植える 植えた後に水やり
ポポーを植え終わると、次にグミの苗木を植え付けました。この果樹は、この近くではどの家でも植えていました。学校帰りに失敬して食べたことがあります。ちょっとすっぱみが強く種が大きいので、好んで食べる人は多くはありません。我家にもグミの木があったのですが、いつの間にか消えていました。たくさん食べる果物ではありませんが、秋を感じる季節果です。
我家建物の西側に植えたグミ、日当たり良い場所
次に、母親の通院時にたまたま園芸店でみつけたサクランボの苗を植えました。サクランボは、東北などの寒い地域でしか実が成らないようです。また、異種のサクランボを同時に植えないと実が成らないようです。しかし売っていたたくさんのサクランボの中に、1本だけで実が成りしかも暖地でも実が成るとの説明があった品種がありました。試しに一本購入して、吉野桜の近くに植えてみることにしました。母親はサクランボ好きです。これまで、毎年夏に八王子から贈っていました。我家産のサクランボ、数年後収穫できるでしょうか?
暖地性で1本でも実が成るというサクランボ、数年後収穫できるか?
届いた苗木のうち、今回は赤松苗10本を植樹しました。赤松は、私の自宅周辺に普通に生えている樹木です。しかし、我家の後ろの山に生えている赤松林が、どうしたわけかほとんどが枯れてしまいました。その枯れた赤松を補うための植林です。
ほとんどが枯れてしまった我家裏山の赤松林
この赤松で思い出すのは、私が子供の頃に父方祖父と我家近くにある高塔山の赤松林によく行ったことです。赤松林の根元に生える松茸(まつたけ)を採取するためです。しかし、どういう訳か、だんだん松茸が取れなってきました。私が小学校高学年の時、祖父と一緒に松茸を取りに行きましたがまったく取れませんでした。その時、松の根元を引っかくようにして探している祖父の姿を覚えています。以降、松茸を取りに行ったことはありません。
今回植林した赤松苗10本 植え穴をクワで掘る
私は専門家ではないのでよく知らないのですが、椎茸(しいたけ)は枯れたり伐採したこならやくぬぎの幹に生えます。しかし、松茸は生きた松にしか生えません。このため、松茸は椎茸のようには簡単には栽培できません。枯れた赤松を再生すれば、もしかして昔のように松茸が取れるようになるのでないかと思います。松林にひょっこり出た松茸を思い出します。松と共生する松茸を人間が取りすぎたために松茸が死滅して、その結果として松が枯れたのかなとも思います。松茸は松にとっての菌根菌なのではないかと思います。
ポットから苗を抜いて移植 移植後、根元に土を埋めて水やり
この春無事に赤松の苗が活着すれば、来年も引き続いて苗を植えようと思います。実現は難しいと思いますが、何年か先に松茸が取れるような松林にできればと思っています。松茸は無理としても、数年かけて青々とした松林を再生したいと思います。
私が子供の頃、高塔山の尾根伝いに八海のバス停に行き、そこからバスに乗って柳井や平生に行きました。今のような舗装道路が無い頃のことです。また、山の尾根伝いに鳥越,旭地区などに遊びに行くこともできました。その頃の豊かな高塔山を思い出します。
植樹した赤松苗10本、この春に活着するでしょうか
来月上関の上盛山をウォーキングする予定なのですが、せっかく行くので上関の史跡も訪れようと思っています。今回は、そのコースを決めるための散策をしました。歩く距離などは、今月末の本下見の時に測ります。上盛山そのものは何度も登ったので、今回は史跡だけを中心に回りました。まずは広い駐車場から歩き始めることを想定して、駐車所からすぐの四階楼に寄りました。明治初期に建築された和洋折衷の建物です。中を見ることができるのようなので、ウォーキングの時に入ることができればと思っています。
和洋折衷の四階楼 明治12建築 なだらかな、沖の浜の海岸
次に、上関大橋を渡りました。渡り終えた場所から道を左に分かれて、沖の浜に向かいました。しばらく歩いていると、右手に小高い山に続く階段がありました。この山頂には16世紀頃の戦国時代に関わる六人塚と呼ばれる史跡があります。この場所には展望台があり、上関大橋を見下ろすことができます。六人塚から階段を下りてすぐ、綺麗な砂浜の海岸がありました。この海岸から八島などを見渡すことができます
沖の浜の山頂にある六人塚展望台からの上関大橋
六人塚や海岸を通り過ぎて、民家がひしめく細い道に入りました。しばらく登った後、下ったところに6人のお地蔵様が仲良く並んでいました。このお地蔵様から左手にどんどん登ると、広い車道に出ました。ここからは上盛山への、歩いて登る登山道と車で登る車道があります。今回は、ルート検討のための下見ですので上盛山には登りませんでした。
仲良く並んだ6人地蔵 上盛山に通ずる、細い歩道と広い車道
上盛山登山口を確認すると、上関城山歴史公園に行きました。何年か前に来たことがありますが、その後より整備されたようです。戦国時代、ここの監視台から海峡を通る船を監視したそうで、いわゆる海の関所だったようです。ここからバス停に下りるか、上関街に下りるか迷いました。バス停に下りると上関大橋まで大回りになるため、ここから直接上関街に下りるルートをとりました。
上関城山歴史公園の海峡監視台 長い石階段の竃八幡宮
上関街に下りる途中に竃八幡宮がありました。その長い階段を降りた場所に旧上関小学校跡がありました。今、山の反対側に立派な小学校ができています。ちやみに、この跡地は江戸時代、明関寺と呼ばれるお寺があったそうです。朝鮮通信使の接待や護衛などの重要な役割をはたしていたそうです。しかし、明治初期の廃仏毀釈で廃寺になり壊されたとのこと。石城山の神護寺やこのお寺など、明治初期に廃されたお寺がたくさんあったようです。旧上関小学校を降りると、上関役場の裏手に出ました。そして、役場裏から続く古い上関の街並みを歩きました。街並みを出たところに上関越荷会所跡がありました。
明関寺跡地に立つ旧上関小学校 熊毛南高校上関分校跡
続いて熊毛南高校上関分校跡地に行きました。私が熊毛南高校本校に通っていたころ、この分校は健在でした。この上関町の海峡を隔てて本土側の生徒は本校に、島側の生徒は分校に通っていたようです。しかし、上関大橋が完成して島に住む人が容易に本土側に行けるようになってから、分校は閉鎖されたのではないかと思います。
熊毛南高校上関分校跡のそばに旧上関番所があります。江戸時代に海運の取り締まりや税の取り立てを行う関所だった建物です。1711年に第8回朝鮮通信使来朝のおり、同じ上関の四代からこの上関街に移転したそうです。この建物は江戸時代の面影が残る貴重な建物だと思います。なんとなく朝鮮風な雰囲気で、縁側に座ると心が落ち着きます。
旧上関番所、江戸時代の面影が残る貴重な建物
旧上関番所を見学後、幼稚園を兼ねるお寺に寄りました。そして、上関大橋を渡り駐車場に戻りました。来月のウォーキングコースは、駐車場-上関大橋-沖の浜-六人地蔵-上盛山-御汗観音-上関城山歴史公園-竃八幡宮-旧上関小学校-旧上関番所-上関大橋-駐車場にしようかと思っています。今月末、再び上関に来て距離や時間などを測り、トイレなどを実地調査しようと思います。上関から自宅に戻る途中、夕日が瀬戸内海にたなびいてとてもきれいでした。
瀬戸内海 波にたなびく馬島の夕日
去年の春に柿とイチジクの苗木を近くの園芸店で購入しました。このように、昔は園芸店などに行って苗木を購入しなければなりませんでした。しかし、今はインターネットで購入することができます。先日購入したサトウカエデの苗木はインターネットで購入しました。
インターネットによる購入の最大の欠点は、苗木の良否をその場で確認できないことです。このため、ある程度のリスクは仕方ありません。しかし、全国のあらゆる種類を選ぶことができ,家にいたままで購入手続きでき,そして送料がかかるも家で待っているだけで届きます。そして今回、インターネットで注文した苗木が届きました。
届いた各種樹木の苗 メタセコイアを植える場所を切り開く
今回購入した苗木は、メタセコイア,赤松,ポポー,そしてグミです。一日でこれらの苗をすべて植えることはできないため、三日に分けて植えつけることにしました。樹木に限らず植物は全般的に、大きな苗ほどストレスに弱く植え付けが難しくなります。このため、一番大きいメタセコイア(2m苗)を最初に植えつけました。
植えるのは、我家の裏にある一番見晴らしの良い場所
メタセコイアの苗を植える場所をいろいろ考えたのですが、我家で一番見晴らしが良い場所にしました。苗を植えるため事前に伐採していたのですが、まだいくつかの雑木や笹を刈り残していました。その残りの雑木をきれいに伐採して、苗を植えやすくしました。
苗の植え穴を掘る 根を覆う包みを剥がす
ところで、亡き父親は植林がとても好きでした。私が子供の頃、父親の植林を見たり手伝ったりしたことがあります。また仕事でも田布施農林事務所(のち柳井農林事務所に統合?)に関わっていました。長年林業や農業委員会などで貢献したためか、数年前に農林大臣から表彰されました。
今、我家を取り巻くように生えているけやきの大木は、八王子市にある昭和天皇 武藏野陵のけやきの下に自然に芽生えた幼苗を育てたものです。平成6年5月5日、当時八王子に住んでいた私が子供達と父親を連れて昭和天皇 武藏野陵に案内したのですが、その時に父親が大切に拾ってきたその幼苗を大木に育てたのです。芽生えたばかりの幼苗を大切にダンボールにしまいこんでいる父親の姿を思い出します。今後、これらの大木をどうするかが私の仕事になります。今回、その亡き父親をしのぶ意味もあり、一番見晴らしの良い場所にメタセコイアの苗を植えることにしました。
植林中の父親(右)と幼児の私 1956年頃 幹の太さは3cm位、移植後に水やり
父親は、亡くなる前数年間体調が良くなかったため、山の手入れができませんでした。このため山は荒れ放題でした。去年東京から帰った私が、できる範囲で山を継ごうと思います。まずは下刈りから始めなければなりません。下刈りしつつ植林をしようと思います。そして、私の好みの山にしようと思っています。しいたけ用のこならやクヌギの林,杉や松の林,竹林,そして野山の木の実(なつはぜ,しゃしんぼ等)を採取できる山です。
ところで、メタセコイアは高さが30m以上になり直径も1m以上になります。樹齢も100年を超えます。遠い未来のことですが、私の子供や孫達に立派に育ったメタセコイアを見て欲しいと思います。メタセコイアは杉や松と違って冬に葉が落ちる落葉樹で、落葉する秋には樹木全体が赤くなります。私は個人的に落葉樹が好きです。冬の竹林や杉林は暗く寒いのですが、こならやクヌギのような落葉樹は冬は地面に日差しがいっぱい降り注ぎます。このため、冬の落葉樹の下で日向ぼっこしながら昼寝するのが最高の至福の時間です。
植え付けを終わった小さなメタセコイア苗と私
私の親戚があった平生町は比較的よく知っています。しかし、今住んでいる田布施町の北や西側はあまり知りません。そこで、これから少しずつこれらの地域を散策して見ようと思います。そこで今回、多賀山と呼ばれるらしい低山に登ってみました。登山口がまったく分からないため、何かのモニュメントがあるらしい広場から比較的近いので、その広場から歩いてみることにしました。しかしながら、多賀山よりも途中にあった広場,モニュメント,およびその広場に関わる施設にはびっくりしました。
広場に向かう石畳の登り道 登り道の両脇は日本庭園のよう
この施設のことを何も知らずに入り、多賀山を登り降りして再び広場や施設に戻りました。戻った時、受付(待機所?)らしき小さな建物があるに気づいて訪問しました。すると、この施設はある宗教の道場だとのことが分かりました。本来は受付を済ませてから施設に入ることを初めて知りました。丁寧にあやまり、この施設のことをお聞きしました。
その宗教は田布施農業高校の向かい側に本部があります。その宗教は田布施に住んでいる人ならば知らない人はいません。私の高校時代、二世教主となった女生徒が同じ高校に通っていたことを覚えています。そのころ、彼女の父親と私の父親は同じく田布施町議会議員でしたので、私の父親は何がしかの関わりがあったかも知れません。二世教主になった彼女のことをお聞きすると、何年か前に亡くなったとのこと。今は、二世教主の娘さんが三世教主になっているそうです。なお、この施設のことを恩額山(山の名前ではない)と呼ぶそうです。
広場に向かう160段ほどの石階段 広場の周囲で咲いていた梅
お話をうかがいながら、広場についてお聞きしました。するとこの広場、もともとは創始者の方が修行した場所だったとのことでした。その後、信者が3年をかけて広場や施設を建設したそうです。建設経過を記録したアルバムを見せていただきました。田布施にこんな施設があったとは知りませんでした。この宗教について私はまったくの無知ですが、偶然とは言え訪れて少しは勉強になりました。ところで、この施設も本部も申請すれば見学できるとのことでした。
中心部にモニュメントが立っている広場、北の方角に石城山が見える
モニュメントが立つ石畳の広場を少し歩き回った後、目的の多賀山に登ってみました。松林の小道を10分も歩かずに山頂に着きました。知らずに歩くと通り過ぎてしまいそうな、何もない丘のような山頂でした。三等三角点が埋め込まれているので山頂と分かります。周りは木々がうっそうと茂っているため、景色を楽しむことはできません。
松林の小道を静かに登る 丘のような山頂には三角点が
何もない山頂から先に少し進んで見ることにしました。すると、小道の南側は雑木林で主に落葉広葉樹からなり、反対の北側は杉や松が規則正しい間隔で植林された林でした。南の雑木林は道もなく歩くことができませんが、植林された林は定期的に間伐されているのか歩くことができました。細い道がどこまで続くのか分からず心細くなります。しばらくして多賀山の山頂に戻りました。そして、元来た広場や施設に戻りました。
良く手入れされて歩きやすい、植林された杉林
今回は、平生の佐賀,曽根,そして大野を結ぶ山の街道を散策してみました。佐賀と平生の境にある夫婦松がスタートです。この夫婦松は江戸時代にすでに有名で、昭和の初めに天然記念物に指定されたとのことです。昭和30年代、私の母親はこの夫婦松に子供達を遠足に連れてきたことがあるそうです。
佐賀の夫婦松、今は枯れて巨大な幹だけが残る ※撮影2012.5.10
夫婦松の由来は、赤松と黒松の2本がたまたま接近して育ったためのようです。ちなみに黒松は雄松と呼ばれ赤松は雌松と呼ばれています。このため、この二つがたまたま接近したまま育って接合した様が夫婦に例えられたのではないとか思います。昭和40年頃までは、夫婦松は緑いっぱいに茂っていたようです。しかし昭和40年代末に、蔓延した松食い虫にやられて枯れてしまいました。そして、枯れた夫婦松は天然記念物対象から外されました。今、枯れ残った幹の巨体は緑豊かに茂っていた当時の姿をしのばせます。その夫婦松から曽根の奥に通じる街道を進みました。
夫婦松からすぐの平生スポーツレク公園 室町時代作の曽根の板碑
夫婦松から、すぐ傍にある平生スポーツレクレーション公園に行きました。その公園から細い山の街道が始まります。スポーツレクレーション公園を左手に進んで、しばらくすると曽根の板碑の標がありました。街道から左手への分かれ道にある墓所を、どんどん下っていくとその板碑が並んでいます。室町時代の西暦1497年作の板碑です。板と言うので木製かと思っていたら石板でした。卒塔婆の原型になったらしいとのこと。曽根の奥には室町の昔から人が住んでいたようです。
曽根の板碑付近から見下ろした平生田布施方面
街道に戻りどんどん進むと、曽根奥の民家がありました。その民家をさらに進むと、前回散策した神護寺の入口に着きました。今回は神護寺には登りません。そのまま街道を進むと、やはり前回来た日向平の棚田に着きました。前回はここまで来て神護寺に戻りましたが、今回は日向平からさらに上にある広い棚田に行きました。どんどん登ると、次々に棚田が広がっていました。
日向平棚田から平生方面を見て 尾根直前で道が消える、何故?
この日向平の棚田、山口県の棚田20選に入っている理由が良く分かります。棚田から北西方向にある平生湾を見下ろすと、何段にも広がった棚田が絶景です。今は冬のため田んぼは枯れた色をしていますが、夏は緑の素晴らしい棚田が広がっているはずです。夏にもういちどここを散策しようと思います。
ところで地図上では、棚田の道は般若寺と大星山を結ぶ尾根道に続いています。そして、尾根に沿って建てられている発電用風車が棚田のすぐ上に見えます。地図上では、数百m先の尾根道と合流するはずです。しかし!!
冬枯れ色をしている棚田、それでもすばらしい風景
地図上はこの棚田から尾根道につながっているはずです。しかし、途中から道が消えていたのです。長年使われないでいるうちに、廃道になってしまったようです。廃道であることを確認するために、地図上での尾根道側に大回りして確認することにしました。棚田を降りて大野北から尾根道に回り込んでみました。すると、確かに棚田方面に下る坂道があるのですが、竹が生い茂り道は暗く通れません。廃道であることは間違いありません。観光にも使えるような立派な棚田なのに「惜しい!」と思いました。がっかりする気持ちを抑えながら、再び大野北に戻って平生方面に下りました。
棚田から、すぐ上に見える風車 竹が生い茂った廃道、残念!
刃をすべて交換したハンマーナイフモアで、枯草ばかりの広い空き地を除草しました。以前お試し除草しましたが、今回は本除草です。しかしながら、もともとは春や夏に生える青草を草刈りするための機械です。このため、固く乾燥しているため冬の枯草は青草のようにはスムーズに除草細断できませんでした。
枯草を中心にハンマーーナイフモアで除草するも、枯草は除草しずらい
前回のお試しで空き地の1/3程度を除草しました。残りの枯草をどんどん除草細断しました。枯草のため時に負荷がかかって、ハンマーナイフモアのエンジンが止まってしまうことがありました。しかし刃を交換したためでしょうか、以前よりは草が細かく裁断されるような気がしました。硬い枯草を考えれば、それなりに満足いくものでした。
枯草を取り込んでは細断 少しずつ枯草を除草
普通の草刈機もそうですが、地面に石があるとなかなか草を根元から刈れません。この草刈機は構造上、草を地面にたたきつけるようにして除草細断します。石があると、刃が石に当たって刃が異常に摩耗します。事前に石を取り除いておく必要があります。
刈り残した枯草を最後に細断、これで空き地が広々と
時間がかかりましたが、これで枯草で一面に覆われた空き地を除草することができました。枯草で見通しが悪かった空き地ですが、こうして枯草が無くなるとけっこう広々とした空き地です。この空き地に何を植えるか、まだ決めていません。まずは雑草が生えないように管理しようと思います。そのために、まずは一度トラクタで全面を耕耘しようと思います。夏は草がどんどん成長するので、最低3回/年の除草は必要です。今年の晩秋に、この空き地を畑にして麦でも蒔いてみようかと思います。
枯草が無くなり広々となった空き地。耕耘後に何を植えようかな?
この日立製トランジスタラジオ TH-660の修理履歴です。それぞれをクリックしてください。
修理( 1/10) 修理( 2/10) 修理( 3/10) 修理( 4/10)
修理( 5/10) 修理( 6/10) 修理( 7/10) 修理( 8/10)
修理( 9/10) 修理(10/10)
朝から雨です。このため、トランジスタラジオの修理をしました。日立製トランジスタラジオ TH-660ですが、多少はガリ音が出るものの、あとはトラッキング調整するだけですのでもう一息です。どのラジオもそうですが、製品出荷時にトラッキングがずれないように、ろう付けしています。このろうを溶かすことから始めました。
アンテナコイルのろうを溶かす 半固定コンデンサのろうを溶かす
ろうは、熱で溶けるため半田コテを使って溶かしました。溶かしたろうは、ティッシュに浸み込ませるようにして取り除きました。OSCコイルや中間周波トランスは、ろうが奥まで浸み込んでいるのかうまくとれません。その結果、トラッキング調整に使えるのは、バーアンテナコイルと、バリコンに付いた半固定コンデンサ(トリマーコンデンサ)です。
アンテナコイルは上下に動かして、トリマーコンデンサは回して調整
OSCコイルは、調整棒が穴に届かないため調整できません。また、中間周波コイルはろうが奥まで浸み込んでいるため調整できません。おそらく、OSCもろうが浸みこんでおり、仮に調整棒が届いても調整できないのではないかと思います。無理に動かそうとして、コアを破損するかも知れません。動かせる部分だけでトラッキング調整してみることにしました。
低い周波数600KHzを発信 アンテナコイルをスライドして調整
最初、低い周波数600KHzでよく受信できるようにバーアンテナのコイルを動かしました。出力電圧を測るパルボル(真空管電圧計)が無いため、振幅変調した1000Hzの音量を耳で聞いて調整しました。次に周波数を1000KHzや高い1600KHzに変えて、今度はトリマーコンデンサを回して調整しました。
1000KHzの電波を発信 1600KHzの電波を発信
そして、600KHz,1000KHz,1600KHzの3点で何度か繰り返して調整しました。すると、全域でよく受信するようになりました。OSCコイルやIFTコイルは、調整しなくても済みそうです。 トラッキング調整をして、よく効いたのはバーアンテナコイルとOSCコイルと共振するバリコンのトリマーコンデンサでした。この二つを特にこまめに調整しました。次回、受信周波数範囲を調査した上で筐体を磨くなどして、このトランジスタラジオの修理を終わろうと思います。
感度調整がよく効く、OSCコイルと共振するバリコンのトリマーコンデンサ
これまでは山を散策することが多かったのですが、今回は柳井市の海岸沿いを散策することにしました。柳井市の南浜です。この付近は、伊保庄と柳井市街をむすぶ幹線です。南浜の一番沖には火力発電所があります。私の母親が伊保庄出身のこともあって、私が子供の頃に伊保庄から南浜を通って柳井市街に何度が行ったことがありました。山や田んぼもいいですが、時にはこのような海岸沿いもウォーキングルートとして良いと思っています。
春は桜が美しい柳井市南浜の「さくら土手」、向こうに火力発電所
伊保庄と柳井市街の間には昔、柳井湾が横たわっていました。このため、昭和初期までは伊保庄の人はちょっとした買い物や演劇を見たい時、峠を越えて平生町に行った方が柳井市街に行くよりも近かったそうです。通学についても例えば、伊保庄から平生の女子高(熊毛南高校の前身)に通っていた人が少なくなかったそうです。なお、私の母親は柳女(柳井高校の前身)に進学したため、この湾に沿って歩いて遠距離通学したそうです。
しかし、昭和も戦後になると柳井湾の埋め立てがどんどん進み、柳井市街に容易に行けるようになりました。その埋立地が南浜で、埋立地と伊保庄を結ぶ橋が今の旭橋です。旭橋を数十年ぶりに渡ってみました。古い橋のため耐久性に問題があり、今は歩行者だけしか通れません。
伊保庄と柳井市街をむすぶ旭橋 火力発電所を隔てる長い堤防
南浜はその昔塩田でした。私の母方祖母Bの実家(奥原家:おくばらけ)は、この南浜の一角の塩田を経営したり漁業もするなどを手広く経営していたようです。塩もち(塩田の経営者)からその祖母が嫁いで来た関係でしょうか、母親から「塩もちは羽振りが良かった。」などの話をよく聞きました。
南浜の塩田と塩田の境目に、塩を船で運ぶための細い運河がありました。そこを通る船を邪魔しないように、石製の高い橋が架かっていました。私が子供の頃、その橋を見たことがあります。その橋のことを母親は猿猴(えんこう)橋と呼んでいたそうです。猿猴とは、カワウソか河童らしいのですがよくは分かりません。その猿猴がその橋の近くに住んでいて、人を海に引き込んだり生き胆を抜く悪さをするとのうわさがあったそうです。
この橋の正式名称は天津(あまつ)橋と呼ぶようです。その橋を探して訪ね歩いたのですが、そもそも細い運河が埋め立てられてありません。いろいろ探したあげく、その場所を見つけることができました。それはルネサス柳井セミコンダクタの敷地内にありました。その石橋は庭石のような姿になっていました。直接見させてほしいとゲートで交渉しましたが、休日のため判断できる人がいないとのことで断られてしまいました。このため、金網越しに見るしかありません。残念!
かつての天津(あまつ)橋 今は、庭石のような天津(あまつ)橋
天津(あまつ)橋を見た後、火力発電所に直近の堤防に沿って進みました。しばらくすると、新柳井大橋の下を通る道に出ました。大きな橋の下をくぐるように通るのは、田布施川沿い史跡めぐりウォーキング8回シリーズ(その1)以来のことです。この時は、南周防大橋の下を通りました。岩国や大畠方面に行く時にこの橋の上を通って行きますが、この橋の下をくぐったのは初めてのことです。
新柳井大橋の下を、くぐりぬけるように通る
新柳井大橋の下を通り抜けると、海岸の堤防がさらに続いていました。その堤防から、海岸を通して、三ヶ岳や琴石山が見えました。しばらく進むと柳井川の防潮堤があり、付近で何やら工事の音がしました。工事の警備員の手信号で、その防潮堤脇から対岸に渡ることができました。この付近も、私が覚えている柳井湾とはすっかり変わっていました。
対岸の向こうに三ヶ岳や琴石山を遠望 柳井川の防潮堤脇を対岸に渡る
防潮堤脇を渡って300m位柳井市街に向かうと、見覚えのあるお店が見えてきました。交差点のある旧国道188号線を大畠方面に行くと量販店山田電器がありました。さらに進んで、JR柳井港駅の少し手前の交差点を右に曲がりました。そこは、柳井オートレース場があった場所です。オートレース場の碑がどこかにないかと探しましたが、どこにもありませんでした。
50年以上前、このオートレース場によく来ました。私のおじさん(母親の弟C)が住み込んで働いていたからです。そのおじさんは、オートレース場の社員(井森組)でもありレーサーでもあったそうで、私の母方祖母Bはレース日にアイスクリームやジュースなどを売っていたそうです。そして売れ残ったアイスクリームを、私の母親の妹Eがもらいうけていたとのことです。一方、私の父方祖母Fの近所に女性の人気ライダーがいたとのことですが、残念なことに若くしてレース事故で亡くなったことも聞きました。
防潮堤付近の港、左丸は三ヶ岳,右丸は琴石山
柳井オートレース場の南は海岸に面していました。その海辺に打ち寄せる波や石混じりの浜を今でも覚えています。そして、おじさんが飼っていたたくさんの鳩がオートレース場の上を群れ飛びまわっていた光景も鮮明に覚えています。しかし、今は埋め立てられ、幼児の私が歩いた海辺は新国道188線になり、さらにその向こうの海は火力発電所になっていました。私の柳井オートレース場の思い出は、私の心の中に仕舞い込まれたままになりそうです。
なお、柳井オートレース場近くの柳井港駅近くの山側に、当時の周東病院がありました。その病院で、私の妹は生まれました。その病院にも何度か行きました。その病院の小さなロータリーにあった池や病院の裏にあった霊安所を覚えています。子供ながら、その霊安所や霊柩車を怖く思ったことを覚えています。
旧柳井オートレース場傍の旧国道188号線は山陽本線と平行していました。今は亡き父親が、幼児の私をバイクに乗せて、その旧国道を蒸気機関車と競争するように並走していたことが思い出されます。
幼き日の思い出が次々に遠くなっていくのは、なんだか切ないものです。
懐かしき柳井オートレース場
今月も、我家の裏に設置している気温記録機器の気温データをパソコンに取り込んでみました。1月は平均気温3℃付近を上下していることが分かります。一番気温が低かったのは2月4日で-2.5℃でした。元旦に積雪があったように、1月上旬はだいぶ低かったことが分かります。
我家の1月の気温変化
そして、30日以降やや気温が上昇しました。そのためか、山裾の福寿草が黄色の花びらをかすかに見せ始めました。そして今日の2月2日、ニュースでは3月上旬並みの暖かさとのことでした。この調子だと、福寿草はあと1~2週間後には開花を迎えるのではないかと思います。なお、紅梅は今が花盛りです。
花びらの黄色が見え始めた福寿草 紅梅は今が花盛り
この日立製トランジスタラジオ TH-660の修理履歴です。それぞれをクリックしてください。
修理( 1/10) 修理( 2/10) 修理( 3/10) 修理( 4/10)
修理( 5/10) 修理( 6/10) 修理( 7/10) 修理( 8/10)
修理( 9/10) 修理(10/10)
午前中たき火をしていたのですが、午後から雨が降って来ました。このため、ラジオの修理をしようと思いました。修理したのは、前回ボリュームが故障してガリ音出る一方で突然音が出なくなる症状がある日立製トランジスタラジオ TH-660です。ボリューム故障は二か所あるようです。一つはガリ音が出る事です。そして、電源スイッチがちょっとの振動でOFFになることです。まずは、その状況をシグナルトレーサーで確認しました。
シグナルトレーサーでボリューム検査 検査できるようボリュームを露出
まずは、SGで1000Hzで振幅変調した電波を出します。そして、ラジオ側の中間周波をシグナルトレーサーで拾いつつ、スピーカーで音を出します。この時、ボリュームを回します。すると、ガリ音とともに煩雑にスピーカーから音が出なくなることがあります。しかし、シグナルトレーサーからは音が聞こえます。つまり、ボリュームの摺動部が接点不良を起こしていることが分かります。また、ボリュームの電源ON/OFFスイッチが時々切れて、シグナルトレーサーにも音が検出できなくなることがあります。このボリュームは、摺動接点と電源ON/OFF接点の2か所に不良があるようです。
接点不良の疑いがある電源ON/OFFスイッチ
そこで最初に、電源スイッチON/OFFスイッチ部を最初アルコールで浸して拭きました。次に紙やすりで接点を磨こうと思いましたが、接点が奥まった所にあるため紙やすりがに届きません。代わりに細いドイバーの尖った先端でその接点を磨きました。すると、電源スイッチのON/OFF不良は直りました。
やっかいなのは、音量をコントロールする摺動接点です。困ったのは、このラジオのボリュームを固定しているアルミ板が基板に接着されて外せないことです。ボリュームを取り出すと一部が破損するリスクがあります。根本的な修理方法ではないのですが、ボリュームの摺動接点を何度も往復させて摺動接点と抵抗面を慣らす方法をとりました。その方法で、なんとかガリ音が減りました。完全ではありませんが良しとしました。これでようやくトラッキング調整に入れそうです。
アルコールで接点を洗浄 ドライバーの先端で接点を磨く
続いてハンマーナイフモアの刃の交換作業をしています。1日1列しか交換できません。今回が3日目で、ようやくすべての刃を交換することができました。一般的な草刈機は刃が一枚です。このため、その1枚だけを交換するだけで済みます。ハンマーナイフモアは、15枚以上あるため、単純に考えれば15倍の手間と時間がかかります。
刃を交換しやすい体勢に 1枚(一対)の刃、これが15個ある
交換作業をしていると、だんだん交換の要領がつかめてきました。その要領の一番は、割りピンの外し方です。最初、おたまじゃくし状の尾の部分を叩いて抜いていました。しかし、この方法は尾が割れたり曲がったりして、結局割ピンが壊れるケースが続発しました。何度かトライしているうちに、割ビンの首から頭に向けて叩けば、意外と簡単に抜けるのです。
〇の方向に叩き込むと簡単に割ピンが抜ける、×の方向はダメ
この割ピンの首から頭に向けて叩く方法を知ってから、割ピンが壊れなくなりました。この方法はその道のプロにしてみれば、当たり前の方法だと思います。いろいろ苦労しながらやってみて初めて分かりました。抜いた割ピンはハンマーでまっすぐになるように整形します。そして、刃を入れ替えた後、再びピンにはめ込みます。
だんだん割りピンが抜ける 曲がった割ピンをまっすぐに整形
ところで前回、壊れた割ピンの代わりに釘を用いて応急処置しました。DIYのお店で割ピンがないかどうか探していたら、ちょうど同じ割ピンが見つかりました。しかもステンレスの割ピンです。この割ピンを使えば、もう錆びつくことは無くなると思います。釘で代用した割ピンを取り外して、購入した割ピンをはめ込みました。
購入した割ピン、右は錆びた割ピン 新品のステンレス割ピンをはめ込む
はめ込んだ新品の割ピンは曲がっていないので、スムーズにピンの穴に入りました。そして、割ピンの裾を二つに割るように曲げました。ハンマーナイフモアは高速で雑草を粉砕しまた。その草のかけらが割ピンに絡みつかないように、丸くなるように強く曲げておかなければなりません。今回、3個の新品ステンレス割ビンを使いました。今後は、最低でも2年に一度は刃の摩耗度や割ピンをチェックする必要があると思います。
粉砕した草が絡みつかないように、丸く強く割ピンの裾を曲げる
ところで、最後の刃一つが全く交換できません。ピンがどうしても抜けないのです。割ピンは抜けたのに、ピンがまったく抜けません。このような時、ピンがはまっている外側をバーナーで熱します。熱で膨張して抜けやすくなるのです。このようにして無事ピンを外して、最後の刃を交換することができました。刃の交換(入れ替え)に多大な時間を取られてしまいました。次回、空いた日に畑の雑草をきれいに刈って粉砕しようと思います。やれやれ、無理な姿勢での刃の交換に疲れました。
バーナーを熱してピンを外す これで刃をすべて入れ替え