これまでは山を散策することが多かったのですが、今回は柳井市の海岸沿いを散策することにしました。柳井市の南浜です。この付近は、伊保庄と柳井市街をむすぶ幹線です。南浜の一番沖には火力発電所があります。私の母親が伊保庄出身のこともあって、私が子供の頃に伊保庄から南浜を通って柳井市街に何度が行ったことがありました。山や田んぼもいいですが、時にはこのような海岸沿いもウォーキングルートとして良いと思っています。
春は桜が美しい柳井市南浜の「さくら土手」、向こうに火力発電所
伊保庄と柳井市街の間には昔、柳井湾が横たわっていました。このため、昭和初期までは伊保庄の人はちょっとした買い物や演劇を見たい時、峠を越えて平生町に行った方が柳井市街に行くよりも近かったそうです。通学についても例えば、伊保庄から平生の女子高(熊毛南高校の前身)に通っていた人が少なくなかったそうです。なお、私の母親は柳女(柳井高校の前身)に進学したため、この湾に沿って歩いて遠距離通学したそうです。
しかし、昭和も戦後になると柳井湾の埋め立てがどんどん進み、柳井市街に容易に行けるようになりました。その埋立地が南浜で、埋立地と伊保庄を結ぶ橋が今の旭橋です。旭橋を数十年ぶりに渡ってみました。古い橋のため耐久性に問題があり、今は歩行者だけしか通れません。
伊保庄と柳井市街をむすぶ旭橋 火力発電所を隔てる長い堤防
南浜はその昔塩田でした。私の母方祖母Bの実家(奥原家:おくばらけ)は、この南浜の一角の塩田を経営したり漁業もするなどを手広く経営していたようです。塩もち(塩田の経営者)からその祖母が嫁いで来た関係でしょうか、母親から「塩もちは羽振りが良かった。」などの話をよく聞きました。
南浜の塩田と塩田の境目に、塩を船で運ぶための細い運河がありました。そこを通る船を邪魔しないように、石製の高い橋が架かっていました。私が子供の頃、その橋を見たことがあります。その橋のことを母親は猿猴(えんこう)橋と呼んでいたそうです。猿猴とは、カワウソか河童らしいのですがよくは分かりません。その猿猴がその橋の近くに住んでいて、人を海に引き込んだり生き胆を抜く悪さをするとのうわさがあったそうです。
この橋の正式名称は天津(あまつ)橋と呼ぶようです。その橋を探して訪ね歩いたのですが、そもそも細い運河が埋め立てられてありません。いろいろ探したあげく、その場所を見つけることができました。それはルネサス柳井セミコンダクタの敷地内にありました。その石橋は庭石のような姿になっていました。直接見させてほしいとゲートで交渉しましたが、休日のため判断できる人がいないとのことで断られてしまいました。このため、金網越しに見るしかありません。残念!
かつての天津(あまつ)橋 今は、庭石のような天津(あまつ)橋
天津(あまつ)橋を見た後、火力発電所に直近の堤防に沿って進みました。しばらくすると、新柳井大橋の下を通る道に出ました。大きな橋の下をくぐるように通るのは、田布施川沿い史跡めぐりウォーキング8回シリーズ(その1)以来のことです。この時は、南周防大橋の下を通りました。岩国や大畠方面に行く時にこの橋の上を通って行きますが、この橋の下をくぐったのは初めてのことです。
新柳井大橋の下を、くぐりぬけるように通る
新柳井大橋の下を通り抜けると、海岸の堤防がさらに続いていました。その堤防から、海岸を通して、三ヶ岳や琴石山が見えました。しばらく進むと柳井川の防潮堤があり、付近で何やら工事の音がしました。工事の警備員の手信号で、その防潮堤脇から対岸に渡ることができました。この付近も、私が覚えている柳井湾とはすっかり変わっていました。
対岸の向こうに三ヶ岳や琴石山を遠望 柳井川の防潮堤脇を対岸に渡る
防潮堤脇を渡って300m位柳井市街に向かうと、見覚えのあるお店が見えてきました。交差点のある旧国道188号線を大畠方面に行くと量販店山田電器がありました。さらに進んで、JR柳井港駅の少し手前の交差点を右に曲がりました。そこは、柳井オートレース場があった場所です。オートレース場の碑がどこかにないかと探しましたが、どこにもありませんでした。
50年以上前、このオートレース場によく来ました。私のおじさん(母親の弟C)が住み込んで働いていたからです。そのおじさんは、オートレース場の社員(井森組)でもありレーサーでもあったそうで、私の母方祖母Bはレース日にアイスクリームやジュースなどを売っていたそうです。そして売れ残ったアイスクリームを、私の母親の妹Eがもらいうけていたとのことです。一方、私の父方祖母Fの近所に女性の人気ライダーがいたとのことですが、残念なことに若くしてレース事故で亡くなったことも聞きました。
防潮堤付近の港、左丸は三ヶ岳,右丸は琴石山
柳井オートレース場の南は海岸に面していました。その海辺に打ち寄せる波や石混じりの浜を今でも覚えています。そして、おじさんが飼っていたたくさんの鳩がオートレース場の上を群れ飛びまわっていた光景も鮮明に覚えています。しかし、今は埋め立てられ、幼児の私が歩いた海辺は新国道188線になり、さらにその向こうの海は火力発電所になっていました。私の柳井オートレース場の思い出は、私の心の中に仕舞い込まれたままになりそうです。
なお、柳井オートレース場近くの柳井港駅近くの山側に、当時の周東病院がありました。その病院で、私の妹は生まれました。その病院にも何度か行きました。その病院の小さなロータリーにあった池や病院の裏にあった霊安所を覚えています。子供ながら、その霊安所や霊柩車を怖く思ったことを覚えています。
旧柳井オートレース場傍の旧国道188号線は山陽本線と平行していました。今は亡き父親が、幼児の私をバイクに乗せて、その旧国道を蒸気機関車と競争するように並走していたことが思い出されます。
幼き日の思い出が次々に遠くなっていくのは、なんだか切ないものです。
懐かしき柳井オートレース場