子どもたちの作文の中の『しかし』だとか『けれども』だとか『が』とか『でも』というような、思考や生き方に屈折を与えて考え直すことばが、急速に衰弱してきているように思われることを実際の作文や、子どもたちの行動のあり方の例を挙げて会員の皆さんに訴えたのを思い出す。
『いのちの根を育てる学力』(東井義雄著 国土社)
小手先の短作文指導だけでどうにかなる問題ではあるまい。東井の文章は「教育の根源にかかわる問題」と続いていく。
つまり複眼的な思考、多面的なものの見方が授業で取り上げられたとき、子どもたちがいかに自分の生活に即してとらえられるか、ということになる。
ここでも物質的な豊かさ、溢れかえる情報が邪魔をするという要素が十分に考えられるのでないか。
ぎりぎりの中で選択するからこそ、「しかし」は切実さをもって明確に姿を現す。
これもある、あれもある、それもよい、どうにかなる…そんな場に慣れきっているから、「しかし」もふにゃふにゃしている。
『いのちの根を育てる学力』(東井義雄著 国土社)
小手先の短作文指導だけでどうにかなる問題ではあるまい。東井の文章は「教育の根源にかかわる問題」と続いていく。
つまり複眼的な思考、多面的なものの見方が授業で取り上げられたとき、子どもたちがいかに自分の生活に即してとらえられるか、ということになる。
ここでも物質的な豊かさ、溢れかえる情報が邪魔をするという要素が十分に考えられるのでないか。
ぎりぎりの中で選択するからこそ、「しかし」は切実さをもって明確に姿を現す。
これもある、あれもある、それもよい、どうにかなる…そんな場に慣れきっているから、「しかし」もふにゃふにゃしている。