精神科医のなだいなだが、昔診察した患者から、自分が発した言葉を聞いた話を書いている。
もちろん、自分自身は忘れているわけだが、患者が忘れず覚えているということは、その人の人生に役立ったことだろうと書く。
そういうことは、教師の世界にもあるように思う。昔受け持った子と成長して語り合ったとき、何気ない一言を覚えていてくれたりして、驚いたり感激したりするものだ。
発した自分自身が記憶がないとすれば、きっとそんなに意識的に使った言葉ではないだろうし、ふだんの関わりの中で出てきた、また自分の自然な感情でしゃべったことといえるかもしれない。
そういう一言を長い期間覚えているということは、その一言は言った本人を離れ、聞いた者のことばになっているのではないか。
おそらく心の中で何かの度に繰り返され、根付いている状態といえるのかもしれない。
そう考えると、医者や教員が発する言葉は、種のようなイメージでとらえることもできるだろう。
対象となる者は全てを受け入れられるのではなく、自分の土壌にあったものが芽を出し、成長していく…そういうことになるだろうか。
肥沃な土もあれば、からからに渇いた荒地もあるだろう。
しかし、毎日毎日種をまく。
その中で何が根付き、何が芽を出すかは、まだだれもにもわからない。
それでも、毎日毎日種をまく。
もちろん、自分自身は忘れているわけだが、患者が忘れず覚えているということは、その人の人生に役立ったことだろうと書く。
そういうことは、教師の世界にもあるように思う。昔受け持った子と成長して語り合ったとき、何気ない一言を覚えていてくれたりして、驚いたり感激したりするものだ。
発した自分自身が記憶がないとすれば、きっとそんなに意識的に使った言葉ではないだろうし、ふだんの関わりの中で出てきた、また自分の自然な感情でしゃべったことといえるかもしれない。
そういう一言を長い期間覚えているということは、その一言は言った本人を離れ、聞いた者のことばになっているのではないか。
おそらく心の中で何かの度に繰り返され、根付いている状態といえるのかもしれない。
そう考えると、医者や教員が発する言葉は、種のようなイメージでとらえることもできるだろう。
対象となる者は全てを受け入れられるのではなく、自分の土壌にあったものが芽を出し、成長していく…そういうことになるだろうか。
肥沃な土もあれば、からからに渇いた荒地もあるだろう。
しかし、毎日毎日種をまく。
その中で何が根付き、何が芽を出すかは、まだだれもにもわからない。
それでも、毎日毎日種をまく。