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「国語」とは何か、へ進む

2009年10月21日 | 読書
 『日本語が亡びるとき~英語の世紀の中で』(水村美苗著 筑摩書房)は、昨年出版されたときに書評なども目にしていてとても気になっていたのだが、少し荷が重いようにも思えて手にするのをためらっていた。

 しかし9月にある大型書店に行ったとき、書棚からぱっとその題名が眼に入ってきて思わず購入してしまった。
 ただ、それからが結構長く自室の棚に鎮座し、ようやく読み始めたのが今月の三連休のとき。読みも実際なかなかはかどらず、結構難航している。ようやく現在五章(全七章)を読み終えた。

 確かに荷が重かったが、私にとっては新鮮な知識も多く入った良書だった。言葉について自分なりに関心は高いと思っていたのだが、実に浅い勉強の仕方だったなと思わざるを得ない。

 言葉の歴史、文学の歴史…受験に出てくるひと通りのことはなんとなくわかっていたつもりだった。しかしそこにある「意味」をあまり深く考えてこなかったし、その点で実に新鮮な、時に驚いてしまう事柄がなんと多かったことか。

 カレツキというポーランド経済学者の悲劇。
 彼は、経済学が英語の学問であることを認識できなかったために、ケインズより早く理論を発表したにも関わらず、全然注目もされず、その証明さえ誰の目にも止まらなかった。

 翻訳という行為が漢字排除論という理念を実現させなかった。
 西洋語を学ぶ機会の中で、そこに蓄積された叡智の量と質に対抗できたのは、漢字かな交じり文を作り上げてきた日本語の豊かさなのだということ。そしてそれが日本の文化を結果的に救ったともいえる。

…まだまだあるのだが、そういったある意味ではドラマチックな展開が溢れていると言ってもよい。
 そして考えさせられるのは、結局、次のことである。

 「国語」とは何か

 この本の中では「『国民国家が自分たちの言葉だと思っている言葉』を指すものとする」と規定されているが、そう考えると固定されたものとは言えず、結局今自分たちがそれをどうとらえ、どう進もうとしているかで決まってくるとも言えるだろう。

 その意味で、インターネットと英語教育を取り上げる残り2章が鍵になることは不肖な自分でさえ理解できる。
 じっくりと読みこんでいきたい。