雑誌BRUTUSが、またなかなかの特集をしている。
「美しい言葉」…ダイレクトな取り上げ方だなと思いながら、中味は村上春樹から松本人志まで、さすがに読ませ上手な構成だなと感じる。
「NEO俳句の世界へ、ようこそ」という頁が目に入る。
自由律俳句の本を出した二人を取り上げている。
自由律俳句といえば、山頭火、放哉という程度の知識はあるが、正直「それがどうした」という世界であって、普通の俳句でさえ満足に読めないのに、それが枠を取り払ってどうするんだ、という気持ちが心の中にあり、どうしてもこんなふうにダラダラと考えざるを得ない。
一つ引用してみる。
姿勢が良すぎる人とすれ違う(せきしろ作)
この場合、詠み手?の心をあれこれ想像することは容易い。
例えば鬱屈している日常を送っている自分が、ある日路を歩いているときに、向こうから妙に姿勢よく闊達に歩いている人を見かける。
自分はその人にじろじろと目を送るのだが、その姿勢の良い人は視線をずっと前に向け、表情はにこやかに足元は軽い。
近づく二人。
視線を外しながらも自分の意識は、その人に向かっている。カツカツと靴音が大きくなる。あまり上がらぬ足を運びながら俯く自分。
そしてすれ違う。その時少し風が冷たい…
とまあこういう世界か。「だから何なんだ!」と考える。
ここで、自由律俳句を一つ。
キーボード見つめ夜明けを待っている
と思って書いたら、定型だった。
「美しい言葉」…ダイレクトな取り上げ方だなと思いながら、中味は村上春樹から松本人志まで、さすがに読ませ上手な構成だなと感じる。
「NEO俳句の世界へ、ようこそ」という頁が目に入る。
自由律俳句の本を出した二人を取り上げている。
自由律俳句といえば、山頭火、放哉という程度の知識はあるが、正直「それがどうした」という世界であって、普通の俳句でさえ満足に読めないのに、それが枠を取り払ってどうするんだ、という気持ちが心の中にあり、どうしてもこんなふうにダラダラと考えざるを得ない。
一つ引用してみる。
姿勢が良すぎる人とすれ違う(せきしろ作)
この場合、詠み手?の心をあれこれ想像することは容易い。
例えば鬱屈している日常を送っている自分が、ある日路を歩いているときに、向こうから妙に姿勢よく闊達に歩いている人を見かける。
自分はその人にじろじろと目を送るのだが、その姿勢の良い人は視線をずっと前に向け、表情はにこやかに足元は軽い。
近づく二人。
視線を外しながらも自分の意識は、その人に向かっている。カツカツと靴音が大きくなる。あまり上がらぬ足を運びながら俯く自分。
そしてすれ違う。その時少し風が冷たい…
とまあこういう世界か。「だから何なんだ!」と考える。
ここで、自由律俳句を一つ。
キーボード見つめ夜明けを待っている
と思って書いたら、定型だった。