すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

美しさはどこにある

2009年10月22日 | 読書
 雑誌BRUTUSが、またなかなかの特集をしている。

 「美しい言葉」…ダイレクトな取り上げ方だなと思いながら、中味は村上春樹から松本人志まで、さすがに読ませ上手な構成だなと感じる。

 「NEO俳句の世界へ、ようこそ」という頁が目に入る。
 自由律俳句の本を出した二人を取り上げている。
 
 自由律俳句といえば、山頭火、放哉という程度の知識はあるが、正直「それがどうした」という世界であって、普通の俳句でさえ満足に読めないのに、それが枠を取り払ってどうするんだ、という気持ちが心の中にあり、どうしてもこんなふうにダラダラと考えざるを得ない。

 一つ引用してみる。

 姿勢が良すぎる人とすれ違う(せきしろ作)
 
 この場合、詠み手?の心をあれこれ想像することは容易い。

 例えば鬱屈している日常を送っている自分が、ある日路を歩いているときに、向こうから妙に姿勢よく闊達に歩いている人を見かける。
 自分はその人にじろじろと目を送るのだが、その姿勢の良い人は視線をずっと前に向け、表情はにこやかに足元は軽い。
 近づく二人。
 視線を外しながらも自分の意識は、その人に向かっている。カツカツと靴音が大きくなる。あまり上がらぬ足を運びながら俯く自分。
 そしてすれ違う。その時少し風が冷たい…

 とまあこういう世界か。「だから何なんだ!」と考える。

 ここで、自由律俳句を一つ。

 キーボード見つめ夜明けを待っている

 と思って書いたら、定型だった。