すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

遠い問題を視界から外さない

2009年10月24日 | 読書
 『日本語が亡びるとき~英語の世紀の中で~』の六章、七章を読み終えた。

 「普遍語」としての英語の台頭が「学問の言葉」として日本語が通用させなくなってきている。従って、日本文学は「現地語」としての文学に成り果てていく。「叡智を求める人」は日本語で小説を書こうとか読もうとかしなくなっている…著者はそういう認識を持っている。

 一方で、日本の出版業界を支える多数の読者がいて、それゆえ毎日多数の本が出て、もちろん小説と呼ばれるものもが売れていく現状があるわけだ。その安閑とした環境が文学にとって、日本語にとってプラスになっているのか、もはやそれは自明のことだ。
 だからと言って、一読者として何ができるか。正直これは重くて抱えきれない課題だ。

 最終章は「教育」について述べている。
 外国語が小学校にも導入され、その展開にどうも違和感を持っている自分なのだが、それは結局「読み」ということが核心にある。
 かなり以前に似たような考えを記した本が読んだ記憶がある。そして、ネットの普及によりそこに賛同する考えは益々強くなる。つまり著者いうところの

 学校教育で、英語を読む能力のとっかかりを与える
 
 ここを芯にすべきだと思うのである。今やっているコミュニケーションごっこのような形はいったい何を学ばせているのか時々不安になる。
 しかしこの流れもずいぶんと大きく強く、逆らえるものかと思ってしまう。

 もちろん最後に著者は国語教育にふれる。
 具体的に言及しているのは教科書のことだ。古典を取り入れ、内容を増やす傾向にあることは確かだが、それではまだまだなのだ。著者の思いは強い。

 もっと過激に。もっともっと過激に。 

 かの齋藤孝氏の主張も同様のものだが、それをブームとしないためにはやはりテキストをどう変えていくか、ここに尽きてくると思う。

 いずれにしても私にとってこの本は、遠くて見えなかった問題や遠ざけていた問題を、一歩、二歩ほど近づけてくれたと言える。
 視界から外されない問題である。