すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

中味より器のような話も

2009年10月13日 | 雑記帳
 数えてみれば17,8年前になってしまうが、初めて複式学級を持ったときに、当時の教頭先生に手伝ってもらって一部単式授業をしたことがある。

 それは3年生の社会科であった(2年生の生活科と離したということになる)。
 しかしその社会科の授業たるや、まったくレベルの低いものだったといわざるを得ない。
 言い訳は奥羽山脈ほどあるがそれは封印しておこう。
 その恥かしい授業のことが思い浮かんだのは、先日野中信行先生がブログで書かれた「味噌汁、ご飯」授業を読んだからである。

 朝4時起きをして二学年分のプリントづくりや準備(主として算数、国語)をする毎日の中で、いかに単式とはいえ社会科は優先順位が低かった。
 そこで考えたのが「板書だけはしっかりやろう」ということ。といっても事前に赤刷りに目を通すぐらいしかできず、その中味たるや、きっと味気なく栄養もないものだったと想像できる。
 廊下から覗いた社会科が専門の同僚に、「あんなふうにするの?」と少し軽蔑気味に語りかけられたことを、今でも覚えている。

 では何も収穫がなかったか、と言えばまんざらそうでもない。
 教育実習の指導でもありがちな言葉だが「板書は授業の設計図」たりえる感覚が、つまらないこと?を続けることによっても身につけられたように思う。

 当時を振り返ると、「発問・指示」「ネタ」中心の授業づくりから、何か安定した「形式」を作れないものかと模索していた時期とでも言えるだろうか。

 結果、日常のべたで地味な授業づくりのためのいくつかの安定した形式(というよりポイントか)を取り込んできたように思う。
 それは、社会科でいえば「ノートづくり」である。
 国語でいえば「視写の位置づけ」であり、算数は「子どもの発言の板書化」である。

 なんだか「中味より器」のような話になったが、それもまた無視してはいけない気がしている。