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「石に言葉を教える」ということ

2009年10月26日 | 読書
 「壊れる日本人 再生編」(柳田邦男著 新潮文庫)
 単行本で出版された時のタイトルが「石に言葉を教える」であり、その言葉に込められた思いが、本全体を貫いている。

 石に言葉を教える
 
 何のことか、と思う。

 著者の想像の中で描かれた物語が、その発端となっている。
 山間の村の風景の中で、石に言葉を教えようとしている一人の男。
 毎日毎日石に話しかける、そのうちに作り話を語り、対話のような姿をあらわすようになる。

 こういう一種の「幻想」が、病む現代日本を救う処方箋であるかのように、著者はその言葉を何回か繰り返している。
 「文庫版へのあとがき」においてもその表現がくりかえされ、その言葉の解題こそが、この本の意味であるというように位置付けられているようだ。

 石に言葉を教える
 
 それは何のことだ、と思う。

 石という無機質のものに話しかける行為は何を表しているのか。
 著者にとって「言葉」、「言葉の力」が最近の大きなテーマであることは書いてある通りだ。
 共通の言語をもたない、いやそればかりか反応も示さない対象に向かって、何かを話すということは単純に自分自身に語っているのだ、と考えていいものだろうか。
 そんな容易い比喩のようなものだろうか。

 「教える」に大きな意味があるように思う。

 つまり、何度も繰り返す、わかるように工夫する、反応を見ながら伝える…
 反応のないものに対して、ということなかれ。石であってもおそらくはその日の天気によって表情を変え、その日の気温によって肌の色が違う、そして季節によって装いもまた異なるだろう…。
 つまり言葉を教えようと試みることは、毎回どんなふうに言葉を使ったかを心に刻むことになっていく。

 解説を書いた鎌田實は、それをこんな言葉で強調している。

 転移
 
 納得である。
 表面上の言葉のやりとりでは、けして深いところまでは届かない。

 石に言葉を教える、その心構えは言葉を使う仕事に就いている者にとって不可欠なのかもしれない。