すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

裏声ですばやく「キビシィーッ」

2009年10月23日 | 雑記帳
 子どもたちのマスク姿を撮り続けてもう4日目。とうとう学級の閉鎖という状態を向かえてしまった。

 帰宅して、家の者に思わず「キビシィーッ」と声をかけてみる。
 声をかけた後に、ふと
「そういえば、財津一郎ってこの頃見かけないなあ」
などと思わぬ方へ話が展開し、頭の後ろから腕を回して耳たぶをつかんでみたりした。

 で?「美しい言葉」である。

 再び、風呂の中で例の雑誌を読んでみたわけだが、結局美しい言葉ってあるのか、ということを思う。
 小林秀雄風に「美しい言葉はない。言葉の美しさがあるだけだ。」
などと気取って結論づけることじゃないだろう。
 ただ、いくつかのことを考える。

 言葉そのものが「美しい」ということは確かにあるだろう。
 しかし、多くの「美しい言葉」には背景があって、それが絶対的な条件のように思う。
 誰が、どんな状況で発した言葉か、このことを抜きには語れない。
 特に「誰」は大きい。美しい人が語れば、それはある意味みんな美しい…。

 「美しい言葉」を受け取る側の知識や感性は大事だ。
 どれだけの想像を働かせて受けとめるか。
 瞬間的に爆発するように感じたり、長くじわじわと広がったり、締め付けられたり…タイプは様々だが、そこに知識と感性は必要だ。

 いや、ではそれを「美しい」と判断するのは何か。
 「美しい」という言葉で括っていいのか。
 確かに「美しい」という言葉はずいぶんと大きな手をしているように見える。結局…

 耳たぶをつかみながら、裏声ですばやく「キビシィーッ」と言ってみる。