すぷりんぐぶろぐ

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この並びに問題あり

2009年11月08日 | 雑記帳
 「大造じいさんとガン」の最終場面の授業では、後半に書く作業を伴う二つの発問・指示が出された。

 今の大造じいさんの気持ちを漢字一文字で表してみよう
 (今日の場面の)大造じいさんの「狩りの日記」を書こう
 
 これらの活動は、場面ごとに継続されてきたことのようであった。

 「漢字一文字」は、例の「今年の漢字」から発想を得たものだろう。私もずいぶんと以前からその手法を、授業や通信のネタ(作文)として扱ってきた。個人的に面白さを感じてやってきたことだが、はて他人がやっているところを見ると、いくらか分析的に考えようという気がわく。

 この手法は結局「抽象化」をねらうと言ってもよくないだろうか。
 「一年を表す漢字は?」というそもそもの発端となる問いでは、多くの要素を総合してふさわしい漢字が選ばれる。
 しかし、現実に子どもたち相手にどんな助言やヒントを与えるかといえば、「強く印象に残る」「何度も繰り返している」「類似したことを合わせてみる」などになる。とすると、抽象化までは届かず、具体的なものの代表というところが関の山だろうか。

 大造じいさんのこの場面でも、そういった受け止め方の子が大半だったと思う。従って、言葉として登場して「堂」「戦」が多く、それらを包括した心情的な「晴」や「喜」がわずかだったとも言える。
 もっとも事前授業をした他の二つのクラスでは一方が「再」、一方が「晴」の字が圧倒的であり、これまた進め方?担任?の違いが際立ったように思う。

 やはりこの活動は拡散的と言えるだろう。これだけ幅広い反応がでる、様々な面から切り込んでいける要素を持っているのである。

 一方の「狩りの日記」を考えると、これはある程度の分量を示して子どもたちに任せる形だから、拡散的そのものである。

 二つの活動が続くということは、昨日書いた「絞込み」「広がり」の組み合わせパターンから外れると考えた。
 従って、この並びは問題あり。というのが今の私なりの結論である。

 協議でも時間的なことの指摘があったが片方の活動だけで十分といえる。また大きくどこかを削り、「漢字一文字」から絞込みをはかって日記へという展開であれば、それもよいだろう。これが私の代案である。

 さて、協議で一つ面白い話を聴いた。これはまた明日。