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模擬授業について考えた

2009年11月25日 | 雑記帳
 花巻での鍛える国語教室が終わってから、考えたことが一つある。

 岩手は国語教育の実践者が多数いて、以前から様々な大会や研修会が行われ、その積極的な設定や参加態勢など学ぶことも多かった。
 今回も三名の方による模擬授業とパネルディスカッションがあり、(内1名は秋田からだったが)いい企画だなあと感心させられた。
 しかし、どうも今回の模擬授業はしっくりこないものがあったというのが正直な感想である。こういう企画に参加する姿勢は敬服するが、模擬授業として見た場合、いったいそれでいいのかという疑問がふつふつと湧いてきた。

 模擬授業とはそもそもどういうものだろうと考えた時、自分の提案や主張を「授業という形」で表現する発表と言っていい。
 授業という形がとれなければ、そうした枠での発表は効果的ではないだろう。
 野口先生のように例えば1時間なりの設定であれば、「解説型模擬授業」は有効な手段と言えるが、今回のように(そして多くの場合)15~20分であるとき、途中で解説したり補足したりすることは、やるべきではない。授業の流れが中断し、思考が妨げられるし、形が壊れるといってよくないか。

 つまり、指導者と学習者との応答で作り上げる授業という意識に欠けるのではないかと思う。発問、指示、説明、助言などをする指導者とそれに応えて活動する学習者の、すり合わせや食い違いを視ていくことが、模擬授業としての発表のメリットだろう。

 実際の授業における対象の違いを、学習者の発達レベルで考え反応の仕方を誘導するのもあまり感心しない。一つの発問や指示に対して早い反応があると予想したなら時間処理で計画すべきが妥当だろう。

 授業技術がどうというより、模擬授業の基本的なあり方に正対していたのは、三人のうち残念ながら一人だけだったのではないか…そんなふうに今思っている。