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「なぜ」と「どんな思い」

2009年11月07日 | 雑記帳
 青森市で行われた国語教育の東北大会で参観した授業は5年生。「大造じいさんとガン」の最終場面である。
 いい音読の声が響く学級だった。学習へ向かう姿勢が前向きだなと感じさせられた。

 さて、導入で本時の学習課題を決めるときに、子どもたちとのやりとりの中で、担任の先生はこんな言い方をした。
 子どもたちからいくつかつぶやきがもれた後、

 「『なぜ』ではなく、『どんな思い』を採用してみよう。勉強している間に『なぜ』がわかるといいね。」

 そして、これが学習課題(「学習問題」と指導案にはある)となる。

 大造じいさいんは、どんな思いで残雪を放したのだろう

 「読解で『なぜ』と問うな」という論がある。
 また逆に「『なぜ』に強くすることが大事だ」という論もある。
 この学習では、単元の初めの段階はでは「なぜ」を使っていて、後半は「どんな思い」が登場してくる。そう考えると、使い分けが意識されているようだ。

 明確に文章から読み取れるものとそうでないもの、という比較だろうか。単純にそうも言えない気がする。
 いずれ大造じいさんの心情を問題にしているわけだから、要は話し合いのさせ方やまとめ方の違いになってくるのではなかろうか。

 大まかに考えれば「なぜ」は集中、収束的と言えるだろう。一方の「どんな思い」は拡散的となるだろう。
 この二つをどういう形、流れで使っていくかが学習活動の決め手となる。
 つまり、「絞り込んでから広げる」「広げてから絞り込む」この二つのタイプのあてはめ方なのである。

 その意味で、単元全体として前者を選択したのが今回参観した授業と言える。
 それが成功したか、問題だったか。
 真面目に取り組んでいる子どもたちを見ると、一定の成果はあると見るべきだろう。

 1時間の授業の中にもその二つのタイプがあてはまることがある。そういう観点でこの授業をみると、主たる発問・指示がどうだったかまた興味深く思えてくる。