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巨人は寡黙なもの

2010年09月08日 | 読書
 『寡黙なる巨人』(多田富雄著 集英社文庫)
 
 なんとも凄い記録だなと思う。
 67歳の誕生日を迎えて間もなく脳梗塞に襲われ、半身不随となった筆者の闘病いや「闘生」記録である。

 いくら想像力を働かせても、その苦しみの深さには及ばないが、「生」の可能性に向かっていく日常を飾らずありのままに綴ったことは胸を打つ。
 第二章の項目が「生きる」「考える」「暮らす」「楽しむ」という順番に並べられたのは、たまたまではあるまい。
 つまり、生きることはまず生きること、それから考えること、次は暮らすこと、そして楽しむことだ、と読みとれはしまいか。

 動かない身体の内部に「新しい人」を発見し、それを「巨人」と名づけた筆者。
 この巨人は、鈍重であることの一つの比喩として生まれた言葉だ。この巨人の成長を見守っていくことで、着実なリハビリとは言えないまでも、自分の動きを一定のところまで拡大していく。
 「寡黙」と形容したのは、時に応えようにも応えられない巨人のもどかしさと、多くを語らせる無意味さも同時に表現しているかもしれない。
 身体は、動くことが全てでもあるのだから。

 反面、「自分」がしっかりと確立している筆者自身の言葉は、後半で様々な分野について触れられ、キレを増している。

 特に興味深く思えた箇所は「愛国心とは何か」「美を求める心」という件だった。

 後者はともかく、愛国心、愛郷心については最近思うことがあったので、意を強くした。改革という名の下に教育現場にその役割を担わせる前にもっとするべきことがあるのではないか。

 帰属意識の大きなよりどころ
 
 まず大人がそれを作る努力をしなければならない。
 形は大切である。そのために、形を自ら示すことを怠っていてはいけない。

 巨人は寡黙なものである。