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空白を怖がる貧しさ

2010年09月21日 | 雑記帳
 以前参加した研究会要項のデザインを参考にしながら、パソコン画面に向かってある会の講師プロフィールの配置を考えていた時、ふとこういう自覚を持った。

 ああ、空白が怖いんだ

 どうしても詰め込みたくなる。
 その空白に何かないと収まりが悪いなあと思ってしまう。
 だから、何かごちゃごちゃと入れ込む。

 この空きは無駄ではないか、ここはもっと何か使えそう、有益な情報はまだあるだろう…で、結局はそこを埋めることによって、すっきりしようとする。その空間は、すっきりしなくなるのに。

 物にあふれている住空間、日常生活にもまさしくあてはまる。
 『持たない暮らし』(下重暁子著 文庫)にはこう書かれている

 物に操られ、物を買い漁った暮らしは、貧しさの裏返しだったのだ。
 
 この貧しさは、空間だけでなく、時間にも当てはまるのかもしれない。
 空白の時間の怖さ。
 ぼんやり過ごしている時間を無駄だと決めつけるわけではないが、どこかそういう意識が残っているような気もする。

 もっと局面的には、ある話をする場合に「間」という空白をうまく使えないでいるのもそうではないか。
 問いかけた後の無反応に見える時間が耐えられなくなったりする。

 時々、一流の講演者、授業者に触れて、その間の取り方、落ち着いた待ちの姿勢に感動することがあり、おのれの未熟さを嘆いたりする。

 どれもこれも、空白を怖がる貧しさが透けてみえる。

 高度成長期に育った田舎者の宿命か。