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明日からの通信を書くために

2012年08月25日 | 読書
 石川晋さんが前著に続いて「学級通信」の本を発刊することを知った頃,学校は夏休みに入り,各学級担任が面談や家庭訪問をしている時期だった。
 ある日,面談から職員室に戻った担任のひとりがこんなことを残念そうに語った。

 「保護者に『うちには通信が来ません』と言われ,ちょっとショックだった。」

 継続的に発行していた職員である。その親が全然見なかったのだとすれば,いくつか理由は考えられる。また,その事実を今まで連絡してこなかったことも結構問題が深い。

 ああ,いくら保護者と連携をとりたいと思っても,こういう状況じゃあなあ…がっくりくるよなあ,いくら学級通信を頑張って発行しても無力なのかなあ…そんな思いがふと頭をよぎった。

 盆過ぎ,夏休み後半になりネットで注文して届いたその本。

 『学級通信を出しつづけるための,10のコツと50のネタ』(石川晋 学事出版)

 いくつか,えっと思ったことがある。

 一つはB5版だったこと。まあ驚くほどのことではないだろうが,なんとなくA5版のイメージを持っていたので,ああそうなんだという感じをもった。
 ○○集とかワークシートに使われるので,職員室や教室で直に使われることを願ってのことだろう。
 中身を見ていけば,実物引用も豊富だし,スペース的に余裕のあるつくりが見やすさにつながっている。

 もう一つは,「★恥を忍んでお見せする…はじめて書いた学級通信第1号」である。
 その勇気ある?アイデアもさることながら,そこに記されている改善ポイントの中身に,ここでもああそうなのかと思ってしまった。

 「学校名が不完全」「見出しの書体をゴシックに」「見出しの表記が体言止めと述語体が混在」…と自らの通信を例にして,書かれてある改善内容が,「形式」を問題にしていることについて,肩すかしのような感じを持ちつつそれでいて妙に納得している自分がいた。

 つまりは「安定した仕組み」なのだ。

 「学級通信を出しつづける」ために必須なのは,確かに情熱であったり,ネタ集めであったりするが,それ以上にしっかりとした枠組みを作っておくことだと念押しされたような気がした。

 そして,この著書がフォローしようとしている幅は,「出しつづける」だけでなく確実に「見させる,読ませる」まである。

 たとえば,「コツ6 『保管』の仕組みを作ろう」である。
 ファイル利用するこのやり方は,そういえばかつての同僚もしていたように記憶している。こうした方法に気づき,しっかり位置づければ,保護者から「うちに通信が来ません」と言われるようなことはかなり少なくなるだろう。
 ちょっとした工夫で,今そんな言葉に嘆く場面を減らせることは,現場感覚としてかなり大事だ。

 先行実践にも目配りしながら,役立ち感十分なコツとネタが紹介されている好著だと思った。
 そして少し想像力を働かせれば,学級通信が担任と生徒の物語に重要な役割を果たしている様子が見えてくるようだった。


 さて,自分も学級通信には思い入れを持った一人だ。
 ネットワーク誌に「たのしい実践」として実践紹介したこともあった。それは当時作っていたサークル冊子の企画の抜粋でもあったことを思い出した。

 十数年経った今,ぺらぺらと見直せば,苦笑せざるをえない表現がたしかに多い。
 ただ「二番打者論」?や「自分をみてもらう」という芯は案外変わっていないのかな。
 そして,教務主任時代から書き出した「学校だより」の継続年数が「学級通信」のそれを越してしまったことに気づき,改めて驚いている。