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信念と手法の練り合わせ

2012年08月21日 | 雑記帳
 もう一つ,ふりかえりを。
 10日の講座で行われた「トーク」の中で、お二人の講師にこんな質問をぶつけてみた。
 
 「国語の授業づくりで大事にしていることをお聞きしたいんですが、少し視点をかえて、『これだけは絶対にしない』ということはございますか?」

 佐藤康子先生が、最初にこんなことをおっしゃった。(私の記憶だが)

 「音読をさせていて、間違ったらすぐ次の子へ変えるというようなやり方はしません。間違ったら直して読ませるべきでしょ。」

 この発言をどうとらえていいものか、少し迷った。
 結果、マイクが私に返ったとき「音読指導の手法については、そのねらいや効果を見きわめて…」といったことで言葉を濁してしまった。
 時間のなかったことも言い訳になるが,ここで少し書き留めてはっきりさせておきたい。

 佐藤先生がご指摘になった場面の具体が明らかでない。
 どんなねらいをもった授業で,どんな指示があり,子どもがどのような反応を示したのか…まったく見えないままだが,様々に仮定すれば気づきも生まれるだろう。

 まず,指導者の音読指導についての考え方は知りたい。
 間違わず読む,引っかからずすらすら読む,発声や句読点に気をつけて読む,聞いている人に中身が伝わるように読む…様々な段階に応じたねらいを,どのような手法を用いて指導していくのか,ということである。

 たとえば「完璧読み」(読み間違わない)を目指して,その手法としてリレー読みやグループ読みを選択し,引っかかれば交代というルールのもとに行われていれば,佐藤先生の指摘されるような場面は予想できる。
 このときに,子どもたちの心が「完璧」という目的に向かっていて,緊張を支えているのであれば,その手法自体は有効ととらえてもいいだろう。

 しかし,そうでない場合,目標が浸透していなかったり,ある特定の子の負担が多かったりする状況であれば,その活動は形式的に流れ,音読そのものは指導効果が薄くなるだろう。
 学級によっては,徹底された学習規律を持っていなければ,ありがちな場面になるかもしれない。

 結局音読に限らず「手法」の意義や有効性を問題にするとき,私たちはいくつかの段階を踏まえる必要がある。

 少し堅苦しい表現だが,指導事項と目標の設定,その目標と学級経営との関連,目標と手段の整合性,学級集団と手法の適合性が考えられる。
 たいていの場合,指導者はこのような刷り合わせを文章化したりはしないが,例えば研究授業のような場合は徹底して行う必要がある。

 そういう繰返しを経て,教師個々の持つ信念と手法・技術が錬り合わされていく。

 また,講座での佐藤康子先生の熱のあふれる指導をみると,各々の教師が自分の性格やタイプを見きわめて手法を選択していくことの大切さが,ぐうんと浮かび上がってくる。