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混沌の中に声を聴く

2012年09月07日 | 読書
 『昭和のエートス』(内田樹 文春文庫)

 現在行われている、いわゆる教育改革や教育再生論といったものに与しない内田教授(もはやそういう職名ではないだろうが、これが一番ぴったりくるので使っている)の言葉は、いつも自分の立ち位置の意味を問いかけてくるように感じられる。

 常々主張しておられる「教育制度の惰性の強化」には、組織や制度をうまく使いこなそうという政治的視点がある。そしてそれは今盛んに進められている査定的な、懲罰的な管理の仕方とは大きくかけ離れたものだ。

 現在進められている施策の多くによって、教員の意欲は多極化している、いやその内実はおそらくかなり偏った二極化と言ってもよく、階級化・序列化への道につながっている気がする。

 それはまた、学ぶ主体である子どもたちの消費的、値踏み的行動を助長することにつながっている。この本に著わされているところの「ユビキタス的視点」や「カタログ化」の範囲での、形式的な学びがこれからも広がり、困難な状況に向かうのではないかと危惧してしまう。

 「秋葉原連続殺傷事件を読む」と名付けられた論考で、実に印象深い記述がある。

 個人的経験が人間をどう変えるか、その決定因は、出来事そのもののうちにあるのではなく、出来事をどういう「文脈」に置いて読むかという「物語」のレベルにある。

 文脈を規定してしまうのは、出自や家庭、学校、職場…様々な環境要因が大きいといっていいだろう。
 そして自分の仕事として、限界を認めながらも、学校という重要なその現場にあることは確かだ。

 きっと毎日の取るに足らない些細なことによって、子どもの思考の糸は生成され、繰り返される日常、折々の非日常的な出来事によって細かく編みこまれていくに違いない。
 やはり授業は大きな要素だし、それ以外の時間にあっても子どもの目に映る教師の言動など、きっとどこかに編みこまれていく要素だ。

 その織物のような思考のなかに、投げ込まれる出来事を、個はどう包みこんでどう折り合わせるのか。全体像が把握できなくとも目を凝らしておく必要が私たちにはある。

 漠然とした物言いになったが、判断、行動を決める一番根っこのところには「他者への信頼」があるのではないだろうか。
 それが極端に薄ければ、悲しい事件と結び付きを強めてしまう。

 人間と人間が触れ合える場で得られる信頼、それは乳児段階での母子関係が始まりである。しかしだんだんと希薄になる現実がある。
 小学校という現場にも期待できなくなっている様相がある。

 それは学校を取り巻く査定的・懲罰的な管理の仕方と無関係だと、誰が言い切れるだろう。
 
 混沌としたなかで,まず足元を,という声だけは常に耳に残そう。