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不安定のなか非合理性を想う

2012年09月19日 | 読書
 『間違いだらけの教育論』(諏訪哲二 光文社新書)を再読した。

 読書記録によると2009年の五月連休時に読んでいた。
 そのときは案外あっさりと「啓蒙」のことを書き残したのだが、今思うとどこか棚上げしたような感がある。
 改めて読み直してみて、その時以上に著者の言うことが沁みる。

  人権と教育について書かれてあるところなど、いったい本質は何かと考えざるをえない卓見があちこちにある。
 特に最終章での、ワタミの渡邉美樹氏への批評は、私たちが間違えてはいけないことが、ずばりと書かれていると思った。

 経営は教育を補強し、強化するために必要だが、経営の論理が教育に取って代わることはできない。・・・中略・・・教育を合理的(経済効率的)にすれば、教育や人間の持つ非合理性を排除するから、かえって教育や人間は不安定になる可能性がある。


 今、「教育や人間は不安定」になっていないか。

 それはきっと合理的な追求が教育の場に進んでいるからだ。
 おそらく多くの人が感じていながら、なかなか公的には発言できないことが数多くある。
 学力問題であったり、いじめ問題であったり、統合問題であったり…。

 そしていくら単発的にそのことを語っても、その合理的な追求を進めようとしている構造はなかなか揺らがない。
 その構造を構造と気づかないような心性が養われているような日常だ。
 また,その中に組み込まれている個人としての自分もいることは正直に言わねばならない。

 不要と切り捨てられてきたこと、程度の低い「目標」によって「改善」を要求されたもの、そして理不尽と称されてきた「伝統」あるもの…それらに含まれた「価値」は様々であったとしても、括れば非合理性の持つ重みや濁りのようなものだ。

 非合理性を学ぶ(身をもって知る、受け入れる)機会を失っている子どもたちが、非合理性が染み込んでいる世界の中で生きていくのは過酷なことだろう。
 その点を意識する人は多いだろうが、意図的に踏み出す人は数少ない。
 どこか何かで挽回しようと叫んでいる人たちは確かにいる。それは反骨なのか、あるいは善意なのか…。

 えっ、ひょっとしたら、もしかしたら、その昔「生きる力」と言い出したのは、まるっきり正反対の位置からその代替を求めてのことなのか…あり得ない。
 合理的にとらえられない言葉を、無理に当てはめたのだから。

 考えていくと、ますます不安定になる。