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「不易というあんこ」をしっかり持つ

2012年09月21日 | 読書
 『新落語的学問のすすめ』(桂文珍 潮出版社)

 確かフジテレビ系(たぶん関西テレビ?)だと思ったが、著者が報道番組のキャスターをしていた時があった。たまに番組を見たときに、なんと知識のある人よという印象を持ったことがある。落語家をばかにするわけではないが、少なくともその世界では指折りの切れ者ではないのかなと思う。

 その当時に(今から十年以上前)、慶應大学で9回にわたって講義をした記録がまとめられた本である。

 「笑い」ということを軸に、軽快な口調(文章タッチもそんな感じということ)で、歴史的なことを踏まえ、様々な視点から迫っていて読み応えがあった。
 当然、笑いをとる場面も多く、この講義はきっと人気が高かったんだろう。

 前半の中心に「笑いの効用」というものがあるが、その中で特に納得できたのがこれだ。

 自らを笑う力

 よく子どもが緊張をごまかす手段として、薄ら笑いを見せることがある。
 これと全く違うとは言えないかもしれないが、数段高い視点で使いこなせるとすれば、それは「優秀な人」だという。この大切さをこう語っている。

 最後の緊張からエスケープする。自分を緩和させていく方法として、自らを笑う。厳しいプレッシャーから自分を解放する、自笑。

 自笑できずに自傷する子のなんと多いことよ…こんな洒落で笑いをとろうとしても駄目か。
 自己の客観視、メタ認知を「笑い飛ばす」という動詞で実行できる人の精神力は確かにかなりだと思う。


 さて、にわか落語ファンの一人として、深く納得されられたことが一つある。
 最近はだいぶ落語番組などを放送したりするが、どうもあまり見る気がしない。やはり回数は少なくともライブに限ると思っている。
 それは単なる「生」「肉声」の良さということだけではない、ということが、この本を読み考えさせられた。著者はこう書く。

 架空の場所に人物がいるのを演じているのに、それをTVカメラをスイッチングで変えてしまうと、空間が全部つぶれてしまいまして、何のためにやったかわからないということになるわけです。

 つまり、違う角度からカメラで写すことは、観客にとってみれば、自分が作り上げた空間がない、もしくは壊されるということになってしまう。
 落語というのは観客の固定的な空間を楽しむものなのである。そしてそこから、空白を楽しむ日本の伝統まで話が及んでいる。

 このような実に味のある話の連続で引きつけられた。
 「情報化時代」を取り上げた最終講義で出てくる「不易流行」を、アンパン型とミスタードーナッツ型に分けて説明しているところも秀逸である。
 時代はドーナッツ型。
「不易というあんこ」をしっかり持ったアンパンでありたいと思った。

 著者桂文珍は、まさに味のあるアンパン顔だものね。