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「授業はあるが教育はない」はない

2012年09月29日 | 読書
 朝風呂読書でこんな一節を目にした。

 「授業はあるが教育はない」

 たまたま指導主事訪問それも生徒指導専任の方が来校し,授業参観,協議会が続いた日だった。各学級の授業の様子を見ながら,その言葉が時々頭をめぐった。

 解読した言い方に変えれば,「学習指導はしているが,生徒指導をしていない」「学力形成はされたが,人格形成ができていない」となるのかもしれない。

 が,しかし,そんなことはあり得ない。

 そういう大雑把な言い方は何かを見逃してしまう。

 つまり,授業とはいつもの場合も生徒指導の場であり,人格形成の場である。それが正であっても,負であっても。
 教師の言動は直接的にしろ間接的にしろ,何かしらの価値観を提示することになる。

 子どもが幼ければ幼いほど,その影響はあるだろう。漢字ひとつ,計算ひとつ学ばせるにも,どんなふうに身につけさせるか,そのものが「教育」なのだということを否定できる人はいない。

 そう考えてくると,改めて発達段階の把握や心理学的な認識の大事さが浮かび上がってくる。

 誰もが完璧なわけではない。
 何を心がけ,どうふるまうのか。
 
 おかしな結論だが,授業のその1時間の重みを「軽い気持ち」で受け止められる工夫が必要だ。