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うっすらとした悲しみを和らげるために

2013年03月04日 | 読書
 『総合教育技術』誌に連載されている野口芳宏先生が、今年度最後のテーマとして取り上げたのは「体罰」のことである。
 「『体罰』評価の来し方・行く末」と題された論考は、五つの項目立てがされていた。

 1 「体罰」とは何か
 2 印象的な昔の「体罰」2例
 3 「体罰」肯定論、抄録
 4 「体罰即絶対悪」の世相
 5 現今とこれからの時代の「体罰」


 先生の講座に繰り返し参加されている方々であれば、そのお考えの大体については理解なさっていることと思う。
 さて今回、先生が5で結ばれた文章は次の通りである。

 「体罰」は、もはや今の時代に合わない。やったら免職、笑われて終わりである。変化する社会に合わせていかなければならない。


 この結びは、まさしくその通りである。異論はなに一つない。
 ただ、私のその文章理解には、うっすらと悲しい感情が覆いかぶさっていたことを正直に白状しよう。

 私自身、教育雑誌にもメールマガジンにも「叱りの成立」と題して、体罰との決別について記した文章を出しているし、けして体罰を容認したり、肯定したりするわけではない。
 
 しかし、結局「伝わるのはエネルギー」という自論の展開のなかに「情動」という部分は切り離せないし、その行動化に大きな制限がかけられることの是非は、簡単に結論が出せないように思う。
 教育の関係性と権威行使の限界、教育における身体感覚の重要性、教育と恐怖の関係など、いくつか根本的に考えてみるべき点があるのではないか。

 野口先生が、ある学者に尋ねた折に「体罰については専ら法律論でしか語られなくなってしまった。体罰についての教育論はすっかり影を潜めてしまった」と返答があったことを紹介されているが、その状況がすべてを物語っているように感じる。

 教育と法律について、論ずるほどの知識は持ち合わせていない。
 ただ、歴史的に法律で禁ぜられていても「懲戒」としての体罰が有用であったと多くに支持されていた時期はあったはずだ。
 先生もこんなふうに書かれている。

 子どもも、親も、社会も、時代も、それらを「受け入れる」ことによって奏効していたのだと、私は考えている。


 ともあれ今は、時代も、社会も、親も、子どもも体罰を「受け入れる」ことはあり得ない。
 それは熱意のある教員が例えば突発的、偶発的、不可避的に働いた些細な身体的な行為であっても、「体罰」という言葉によって裁断されれば、教育的意味を亡くし、対象者に自省とは正反対の思考、感情を引き起こさせる。
 それはまた双方に「学習」される。

 「変化する社会」の内実を、そういう場面の繰り返しが担っていくことは確かだろう。
 いかなる信念も熱意も、受け入れられなければ、役には立たない。
 しかし、受け入れられることだけを念頭において自らの気持ちを裏切り続けることは避けたい。

 「合わせていかなければならない」なかみや方法は多様だと解釈しよう。

 硬か軟か、剛か柔か、といったステレオタイプの考えではなく、幅広い視野を持とうと決意すれば、悲しみもまた少し和らぐ気がする。