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手離せない責任感とは

2013年03月11日 | 読書
 ある雑誌別冊に載っていた大前研一氏の「21世紀型子育てのすすめ」という文章が興味深かった。

 ビジネスマン向けの雑誌であれば、何度も目にしている著者の文章だが、題名から想像できるように一般向け、主婦層向けのような雑誌なので、それらとは違う内容・視点があった。

 子どもには、小さい頃から「責任感」というものを徹底して教えました。

 この頃、なんとなく「責任」という言葉が教育の場で薄くなっているような気がするのは自分だけだろうか。
 教員・職員に対してその「責任」は益々強調されているのに、対子どもという面であまりその言葉が表面化されない。
 この言葉の重みが今の教育風潮にそぐわなくなっているのか。逆に大人の世界では、それがどんどん重くなっている現実があり、このギャップは小1や中1とはレベルが明らか違うのに…そんなことを感じてしまった。

 大前氏は「4つの責任」といい、「自分の人生」「会社」「社会」家族」をその対象としている。
 自らもそういう問いかけを自分の子どもにしてきたようだ。ドロップアウトをし続けた次男のことについても一項設けてその歴史を語っているが、「何がやりたいのか」を徹底して話し合い、突きつめて考えさせていく姿勢はなるほどと思う。

 が同時に結果的にそれだけの経済的な基盤を氏が築いていることが、重要な条件であろうなという予想もわく。
 これは貧乏人のやっかみみたいな部分もあるが、経済格差と考え方の格差の絡み合いであり、論理的にはわかってもすっきり得心いかない部分だ。

 氏の文科省の教育方針、カリキュラム批判は以前から知っている。
 エリート教育の推進と括っていいかどうかわからないが、いずれ「突出した個人」を作ることにシフトするべきだという論である。
 もっともだなと感じる部分と、こういう論議のもっていきどころがあまりにも混沌としていて、つかみどころがないように思う。


 さて、大前氏はこんなことも書いている。

 教育は地域に任せたほうがいいんです。

 本来、そうあってしかるべき教育委員会制度も、なぜそんなふうに機能できないのか、まずそれこそ問われるべきだろう。
 一種のブラックボックス化だし、教育以外の分野においても似たようなことが進行しているように思う。
 これは複雑をきわめる現代社会のなかの個人が、思考停止という手段である意味自分を防御している姿とは言えまいか。
 それゆえ、リーダー、パイオニアたる者の役割は重い。

 「B層」とか「衆愚的日本人」とか名づけて、突き離すことも一つの戦略だけれども、要は「自分で考え、行動する日本人」の育成を目指して、具体的にどんなアプローチをしていくのかが問題だろう。
 大前氏は、人材育成に力を注ぐと明言してはいる。その方向と焦点化はどのあたりにあるのだろう。

 いつも語る国際競争力の重視と、教育の地方分権化は、相容れない考えではないかもしれない。
 しかし、大胆な構造改革による多数の意識変革や、もしくはよほどきめ細かい政策推進がないと、安定した形での両立は難しいだろう。
 それらをやりきるリーダーとはいかなる者か。それもこれも、個の「責任」という決着のさせ方をするつもりではないと思うのだけれど…。


 前にもどって「責任感」という言葉をちょっと考えてみた。
 すると、その「任」とは何か、ということに目が向いた。
 対象がそれぞれある「任」のなかみを規定するのはなんだろう。

 法律のレベル、モラルのレベル、そして、自己凝視。

 手離せない責任感の範囲をめぐって、人はいつも揺れている。