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桜と絵本と豆乳と

町のおとなへの憧れ

2013年03月31日 | 読書
 思えば,マガジンハウスの『ダカーポ』という雑誌にはお世話になった。
 それがきっかけで好きになった作家等が結構いる。
 大崎善生,リリーフランキー,ドリアン助川……。そして,常盤新平の名前もそのとき頭に刻まれたものだった。
 古本屋でこんな本を見つけた。

 『ちょっと町へ』(常盤新平 経済界)

 90年代に出されたエッセイ集。
 これも,ダカーポ連載と同じように町に出かけて,誰かと会って,美味しいものを食べて,いろいろと話したことなどを,淡々と書いているだけの文章である。

 読み進めているうちに,自分はなんでこんな文章を読んでいるだろう,何に惹かれているんだろうという気になった。

 東京に住む作家(翻訳家)が,土曜日曜に,浅草や銀座やあとは名前も知らないような町に出かけて,有名無名の店で誰かと食事したとか,これが美味だとか,ウィンズで馬券を買ったとか,という内容である。

 単に,田舎者が都会のそうした暮らしに憧れを持っているだけか……。

 そうかもしれない。
 ただ,その中身についてちょっとだけ穿りだしてみると,次のようなことが頭に浮かんだ。

 この本の題名には「町」が使われていて,そこに触れられた文章が一つある。
 「町と街」と題された章は,その二つのマチについての違いが述べられている。
 タウンとストリートの違いというと分かりやすい。だからこの本は本来「ちょっと街へ」と題される中味なのである。
 しかし,それをあえて?「町」にしたところに,著者の日常性があり,そこに魅力を感ずるのかと思った。

 東北出身ではあるが,長く都会に暮らし馴染んでいる人だけが持つ雰囲気,それも上質な感触が漂うものへの憧れである。

 それはもう一つの魅力とかさなっている。
 ずっと読み続けた『ダカーポ』連載の文章も単行本にされている。
 その書名が「おとなの流儀」なのである。

 今,その書名を言えば伊集院静の名前がでてくるだろうが,もうすでに常盤がその題名で発刊していたのである。
 伊集院との比較は避けるが,いずれそこには齢を重ねた者だけが持つ所作,振舞があり,それは経歴と積み重ねた暮らしのなかで身につけたものだ。

 懐古の情はあってもそれを強く出すこともしない,目の前の移りゆく風景,物事へ批判的な目はあるが,ことさらに大きな声をあげるわけではない。
 ただ自分の流儀をしっかり守り,日常を坦々と過ごす。
 こんな一節がある。

 大風呂敷を広げる奴らが「出れる」や「見れる」や「生きざま」を口にしているのではないか。

 こういう呟きに魅力を感ずるというのは,いかに自分がバタバタしているかの証明みたいなものである。

 どんと構えて新年度を迎えたいが,まだまだその境地には距離があるようだ。