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『教師力ピラミッド』をたずねてみる①

2013年03月06日 | 読書
 通勤鞄の中に入れてもうひと月過ぎただろうか。
 十分気になりながらも、なぜか入れっぱなしのあの本をとうとうめくってみた。

 『教師力ピラミッド』(堀裕嗣 明治図書)
 

 売れているらしいが、もちろん「初版」である。
 堀さんのブログ愛読者なので、この考え方についてはある程度の知識は持っていた。
 一冊の本としてまとまった形で読むことはまた違う学びなので、少しずつ感想を記してみたい。

 まず「教師力」という言葉である。
 そもそも「○○力」という表現は数知れずあるが、仕事や職業を○○としたものは少ないのではないか、と思う。
 同じ「○師」であっても「牧師力」「医師力」「漁師力」「調理師力」「看護師力」…聞いたことがない。
 それでは、なぜこの言葉が流布されたのか。
 著者はこう書いている。

 「教師力」などという言葉が流行するということは、多くの教師が教師としての仕事をしていくだけの力量を具えていないという批判的言説が、世論の中にはびこっているということを意味します。


 「教育は人なり」という格言?を持ち出すまでもなく、制度や環境等以上に直接の担当者としての教師が注目されるのは言うまでもない。
 政治や社会の変化がどうであれ、教育の直接の責任者として教師は見られ、評価され続けるのである。
 まずは、この自覚が必要だということから、この著はスタートしている。

 クレームのパターンから導き出した4つの要素の配置に異論はない。

 第2章には冒頭にこんな表現がある。

 基本的モラルと生活モラルをもつことが教師の基盤です。

 まったくその通りであるが、ここは「教師」を「社会人」や別の職業を換えても通用するだろうと単純に思う。
 ただし、第2章を読んでいくと、この内容が広範囲で、何でも屋的かつ世渡り感覚の重視であることがわかる。

 それは、学校・教室自体が一つの独特な社会であり、児童生徒といういわば未熟な集団を対象としながら、学校独特の職場文化を持ち、その中で保護者や周囲の社会とすり合わせながら進めるという特殊性(いや使命と言うべきか)が強い環境への適応のために、そうならざるを得ないということか。

 不器用だし、きわめて興味の範囲が狭い自分などは、求められることが多岐にわたると、もうそれだけで萎えてしまいそうだ。
 好奇心や積極性、上達志向などが高い人に有利に思える資質だ。
 しかし、ここは明らかに礎の部分。強調されている個のキャラクター以前に心身に叩き込みたい要素なのだ。

 それをどこで養うのかという問題は結構根深いが、現場にいる者としては、現場で培う面が大きいという受け止め方をしたい。

 工夫されたレイアウト、柔らかく読みやすい文体の中で、著者はそれをきっちり主張している。