すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

書き写したい一滴の思い

2020年08月01日 | 読書
 以前勤めていた山間部の小学校の新入生に、ムラカミハルキという名前の子がいた。有名人と同氏名の人間も多いだろうが、大作家だと同じだとこの後どんな目に遭う(笑)のかと、変な心配もしたりした。さて、自分にとっては著作の書名はいくつでも挙げられるが、実際に読んでいる作品はわずかという稀な作家だ。

 『猫を棄てる ~父親について語るとき~』(村上春樹  文藝春秋)



 とても薄いので読んでみようかと思った。最大出版部数を誇る月刊誌に載せられた文章を改めて単行本にした形だ。父親との確執が長かった著者が、幼い頃からの思い出を振り返り、淡々と綴っている。わずか20分ほどで読み終えようとしたとき、ある感覚が湧きあがってきた。「書き写してみたい」。久しぶりだった。


 声にしてみたいと感じる文章は、時々出会う。愛読書もある。それから「キニナルキ」をずっと続けているように、引用つまりキーボードで打ち込み、紹介したり考えたりすることは、常にやってきた。しかし、直接筆記具(今は安物の万年筆がいい)を使い、ノートに書きつけてみたいと感じるのは、めったにない。

 自分のバランスの悪い字を残すのは恥ずかしいので、改めて打ち直すとこの二つの部分である。

 それはまだ幼い僕にひとつの生々しい教訓を残してくれた。「降りることは、上がることよりずっとむずかしい」ということだ。より一般化するなら、こういうことになるーー結果は起因をあっさり呑み込み、無力化していく。それはある場合には猫を殺し、ある場合には人をも殺す。

 我々は結局のところ、偶然がたまたま生んだひとつの事実を、唯一無二の事実としてみなして生きているだけのことなのではあるまいか。言い換えれば我々は、広大な大地に向けて降る膨大な数の雨粒の、名もなき一滴に過ぎない。固有ではあるけれど、交換可能な一滴だ。しかしその一滴の雨水には、一滴の雨水なりの思いがある。一滴の雨水の歴史があり、それを受け継いでいくという一滴の雨水の責務がある。


 話は幼い頃父親と一緒に捨てに行った猫の思い出から始まる。その時代のありきたりとも言える日常を描きながら、歴史の波が個にどんな影響を及ぼし、どう連鎖していくか、深い洞察が感じられた。一滴の思い、歴史、そして責務…こうした言葉を身に刻んでおく心性にようやく気づき始めた…のかもしれない。