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罪深き者、見切り発車

2020年08月21日 | 読書
 『わかりやすさの罪』(武田砂鉄 朝日新聞出版)に関わってはいくらでも書けそうな気もする。それだけ「罪深さ」に囚われているのか。弁明めいたことを書いても気が晴れるわけではないし、この辺で見切りをつけよう。「12 説明不足」という章は、「『見切り発車』という言葉、というか状態が好き」と書きだす。


 実は著者は「見切り発車」の意味を取り違えていたことを吐露しながら、文章を続けている。ここで思い出すのは、酒井臣吾先生の描画指導法の原則のことである。四つありその一番目として「踏ん切る」を挙げられ、「見切り発車をおそれない」と説明された。実に印象深く、それは生き方にも通ずるといつも思っている。


 遅い人は置いていっても構わないという対人的な思考ではなく、あくまで自分の行動指針としての「見切り発車」である。そもそも、人生において「完結」することなど「死」しかないだろう。日常非日常を問わず様々な表現活動も、その内容はおよそ見切り発車の状態で提示され、理解は受け止める側に委ねられる。



 「わかりやすい」を求めるのは、不安定さを回避したいからだ。曖昧でなく抽象的でなく、明快、具体的なことに偏ってきたのはいつ頃からか。ふと思い出したのは昭和60年。三校目の学校に赴任した直後、何かの機会に、ある6年男児に「先生、具体的ってどういうことかわかる?」と言い寄られたことがある。


 前後は失念したが、自分は何か言いよどんだのかもしれない。その頃から発問・指示にのめり込んだことを思い出すと、時代が求めていたというのは大袈裟だがそんなふうに導かれたと俯瞰できる。スッキリさを求めてわかったつもりになり、結果、心底に淀んでいる「泥」。それを搔き回すことを常に忘れてはいけない。