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桜と絵本と豆乳と

器量で見つめる今を

2020年08月08日 | 読書
 「なつかしい」という語が、「過去の思い出」や「久しぶり」に伴う感情だけを表しているわけではないことを知ったのは、成人してからだと思う。そもそもが「なつく」という動詞がもとにあり「傍に居たい、心惹かれる、いとしい」といった感情を指す。この一冊を読んでいる場は、まさにそんな時間が流れていた。


 『なつかしい時間』(長田弘  岩波新書)



 図書館から借りて読了したが、書棚に置きたいと思い注文した。1995年から2012年にかけて書かれた文章であっても、時代を越えて本当に大事なものが詰まっている。私たちが何気なく使う言葉について深く見つめ、その精神を説く先達は何人か思い浮かぶが、著者も間違いなくその一人だと思う。学びは大きい。


 例えば、「『退屈』の研究」と題したページには、今日の人間が退ける語として「退屈」を挙げ、芥川龍之介の文章を引用しながら、彼の人生の破綻と退屈の捉え方を鮮やかに浮き上がらせてくれる。退屈こそ「万物の母」ではないかと言う著者は、こんな言葉で読者に問いかけている。

 「退屈」をゆっくりした時間、ゆったりした時間としてすすんで捉えかえすことができれば、「退屈」のない多忙、興奮のみをよしとする日々の窮屈さに気づくはず。


 最も唸ったのは「『器量』という尺度」という章。一般に人間を形容する語だが、社会や文化もその視点で「器量の器はハードウェアのこと。器量の量はソフトウエアのこと」という解釈が成り立つ。本来は一体化して使われたその語が、現在はその二つが分離して、アンバランスが際立つ。「器量」という尺度も後退した。


 技術革新が進みあっと言う間にそれに替わる尺度として、「性能」が現れた。それは機械のみならず、人間さえも対象とする。身心というハードとソフトを分離できない人間にとって「性能」を求められる世の中はやはり何かを犠牲にせざるを得ないのだろう。個人の器量、社会の器量…トータルに考え、取り戻したい。